【連載】ゆっくり、だけど、確実に。 〜福盛進也 音楽半生記〜 (第1回~20回)

2019年に創立50周年を迎えたドイツの名門ECMレーベル。そのECMから昨年デビューを飾った日本人ドラマーの福盛進也。
15歳でドラムを始め、17歳の時に単身で渡米。その後、ブルックヘブン・カレッジ、テキサス大学アーリントン校を経て、バークリー音楽大学を卒業。10年間のアメリカでの活動後、2013年に拠点をミュンヘンに移し欧州各国で研鑽を積み、遂に念願のECMデビューを飾った福盛進也が、これまでの歩みを自ら綴る連載企画。
【序章】―出逢い―
よく晴れた気持ちの良い日だった。小学一年生、六歳の僕はH楽器という名前の楽器屋の前に母親といた。
物心ついた頃には、父の影響で家の中で流れている音楽をよく聴き、幼いながらも三歳上の兄と一緒にディープ・パープルやチャゲ&飛鳥などを口ずさんでいた。父は大学時代に軽音楽部でドラムをやっていたこともあり、その名残で家にはアコースティックギターが置いてあった。そのギターで昭和のフォークソングを弾き語る父、そしてその音楽性が後の自分にどれだけの影響をもたらすかはその時は知る由もなかった。
そんな音楽好きの父と一緒にバイオリンを習い始める、そういう理由で僕たち親子は見学のために家の近所にあるH楽器に来ていたのだ。と言っても、見学後に友達と遊ぶ約束をしていた幼い僕はそそくさと自転車で友達の家へと向かい、見学した内容はおろかバイオリンのことなどあまり頭に入っていなかった。だがこれが、僕が最初に楽器というものを始めるきっかけとなったことは紛れもない事実である。そして、これが全ての始まりであった。
父の弾き語り
父とのバイオリン
【第一章】―グリーンスリーブス―
僕は生まれつき左耳が全く聞こえない。正式に言うと「左耳感音性難聴」という機能障害だそうだが、自分にとってこれが障害だと思ったことは今日の日まで一度たりともない。医者が言うには、「左耳が不自由な分、右耳が通常の倍ほどの聴力がある」ということらしい。ただ自分には「通常」の人の聴力を味わったことがないのであまりピンとは来ない。しかし、この「障害」のお陰かどうかは分からないが、人より優れた音感を授かったということは何にも代え難いものである。
祭り大好きな幼少期
H楽器での見学を終え、バイオリンのレッスンに通う日々が始まった。毎週金曜日、大阪フィルハーモニー交響楽団でバイオリンを務めていたF先生に一から教えてもらった。実はこのF先生、結構いい加減で大雑把な性格だったのだが、飽き性の自分には相性がちょうど良く、かなり自由に自分が面白いようにレッスンを受けさせてもらえた。その反面、真面目にレッスンを受けたい父はF先生のいい加減な指導のせいで上達するのが遅れ、長年苦しんでいたのもまた悲しい事実なのだが。
そのF先生が、レッスンを習い始めてすぐの時に言ってくれた言葉がある。
「左耳が聞こえないなんて、バイオリンを演奏するのに最高に向いているね!」
バイオリンは肩と左顎で挟んで演奏する為、どうしても左耳が楽器に近くなってしまうのだが、左耳の聞こえない僕には自分で演奏する音がうるさくなくて向いている、という意味である。自分の「障害」が実は長所に生まれ変わることもあるのだ、と認識させられた忘れられない言葉だった。
そうしてレッスンを受けているうちにバイオリンに対する興味も増え、初心者ならまず挑戦させてもらえないであろうテクニックも勝手に取り入れ、音楽を演奏する楽しさを覚えていった。何事にも最初が肝心というのはその通りで、この時期は自分の中で非常に重要な時期だったと解釈している。この頃に演奏していたバッハやモーツァルト、そして特にベートーベンといった作曲家のクラシック音楽は、音楽の道に進む過程で自分に多大なる影響を与えた。
バイオリン発表会1
バイオリン発表会2
また同時期に、当時「クライズラー&カンパニー」というグループで活動していたバイオリニスト、葉加瀬太郎の演奏をよく聴くようになっていた。ある日、友達の家から帰宅すると、母が「ちょっとこっちに来て、ここの椅子に座ってジッと聴いてみ?」とステレオの前に座らされた。
そして、その時にステレオから流れたクライズラー&カンパニーの「グリーンスリーブス」が非常に美しく、まだ二桁にも満たない歳の僕が音楽で初めて感動する衝撃的な体験だったことを今でも鮮明に覚えている。
もちろん、そんな経験をしたりしているもんだから、幼い僕はどんどんと音楽に引き込まれていった。学校でも音楽の授業でリコーダーを吹いたりするのも楽しかった。授業で習ったニ声のメロディから成る曲を家に持ち帰り、父と連弾しカセットテープに録音したりもしていた。そしてそのテープを学校に持って行き、音楽の授業で「お手本」として流してもらったりもしていたのだから、相当な音楽好きな子供だったのだろう。他に、幼稚園の生活発表会で小さな木琴を演奏する機会があり、その木琴がとても気に入った僕は母になんとか木琴を買って欲しいと懇願し、近所のデパートに買いに行ったことがある。その時、残念ながらピアノでいう黒鍵の部分が付いた木琴が品切れで数日後の入荷を待たなければいけなかったのだ。しかし頑固な僕は、どうしてもその日のうちに木琴を持ち帰りたいと母にせがみ、一回り小さい白鍵だけの木琴を買ってもらい大喜びしたのであった。打楽器好きはもしかしたらこの時から来ているのかもしれない。
幼稚園で木琴
小学校高学年に上がると、バイオリンと並行してピアノを習い始めた。バイオリンをしていることから楽譜を読むことはできたし、両手を同時に動かすことも苦に感じなかった。どちらかというと、利き手ではない左手の動きのほうが褒められていたぐらいだった。
こんな書き方をすると、自分は文化系で外に出ることはなかったように思われてしまうが、実は運動が何よりも大好きで、音楽なんかよりも体育のほうが断然得意だった。実際、その頃は器械体操部に所属し、ジャッキー・チェンに憧れながら器械体操選手になりたいという夢を持っていた。縄跳びで二重跳びを連続200回以上やったり、足もクラスで一番速かったり、「運動」と言えばまず自分より右に出るものはいないぐらい得意分野だったのだ。
だから、そんな運動神経抜群と思い込んでいた僕は、ピアノやバイオリンのレッスン前にも大いに外で遊び、骨折とはいかないまでも、突き指やら捻挫やらで親を悩ませる非常に活発な子供でいた。その当時の一番の事件と言えば、街のソフトボールのチームで投手を任され、ノックの練習中に外野に行くはずだったボールが誤って自分の眼を目掛けて一直線に飛んできたことだろう。もちろん一瞬の出来事だったので避けることができず、ソフトボールは自分の右目に見事に命中した。そこから少しだけ記憶は無いのだが、気付いたら誰かに抱えられ、その後救急車で病院まで連れて行かれていた。それから一日病院で寝たきりだったのだが、不幸中の幸いというか、ソフトボールが普通の野球のボールに比べてサイズが大きかったことで眼球に直接危害はなく大怪我には至らなかった。ただバツの悪いことに、その事件が起きた次の日は、大事なバイオリンの発表会の日だったのだ。発表会の当日、クラスメイトの女の子がわざわざサプライズで花束を用意してくれていたのだが、残念ながらそれは出演できない僕のお見舞いの花束に変わってしまったのだ。
小指はいつも突き指
右目付近に対してあまり良い思い出がこれ以降も無いのだが、それはまた別のお話。
【第ニ章】―疾走―
中学生になり、運動好きで特に足に自信があった僕は入学早々陸上部に入った。小学生の頃50m走は必ずクラスでトップだったし、そしてまた、高校で陸上をやっていて今でも大の陸上ファンの父の影響もあり、自分にとっては自然な流れだった。それと同時にバイオリンを弾く機会も少なくなり遂には辞めてしまった(しかし何故かピアノはまだ続けていたのだが)。
陸上部に入った僕は、何もかもが新鮮でただ走ることが楽しくて、練習に毎日参加していた。学校の外周がちょうどトラック2周分(800m)あり、練習の一部でその外周を走るのが日課だった。もちろんただ走るだけではなく、タイムを計り他の部員とレースみたいなこともした。そしてそのレースのタイムが良く、自分は中距離(主に800mや1500m)の選手になった。
余談になるかもしれないが、中距離走というと地味な競技に聞こえるかもしれないが、短距離のほどのスピードではないが長距離ほど抑えて走ることも一切なく、ほぼ全力疾走で他の選手との駆け引きをする、陸上界では一番過酷な競技だとも言われている。ただ、そういった面も含めて僕は中距離がとても好きだったのだ。
駅伝を走った後
そして陸上部に入って初めての大会、中学一年の夏前に長居公園陸上競技場で行われた。もちろんエントリーは800m走。「コール」と呼ばれる、エントリーをした選手が当日改めてレースの参加確認をする作業があり、初めての自分も緊張しながらコールを済ませた。そのコールの時点でその場に居なければ「コール漏れ」と判断され、失格になりレースに参加できないという、選手にとって非常に怖いものであった。
他競技で頑張る部活仲間を応援し、自分の番がどんどんと近づいて来た。スタンドから一階に降り、室内練習場でスパイクに履き替えウォームアップを始める。そして遂にその時が。走者が集まり最終点呼。大きく返事をしスタート地点に並ぶ。僕はかなり背が低かったのだが、周りにはもっと大きな中学二年、三年の選手もいる。緊張しながらスタートの合図を待つ。
「バンッ!」
一斉にスタートし思いの限り走る。初めての大会なので駆け引きのことなんて頭に無い、ただ疾走するだけ。そしてあっという間に2周が終わりゴール、結果は優勝だった。後日、朝礼で校長先生に名前を呼ばれ全校生徒の前で賞状を渡され表彰され、自分のことをとても誇らしく思った。その時から陸上部では一目置かれる存在になり、中長距離の選手のまとめ役になっていった。
大会でもらった賞状
しかし、である。中学に入りたての初めての大会で優勝してしまったものだから、やる気が失せ次第に練習をサボるようになり、遂には幽霊部員となってしまった。大会の前日だけ練習に参加し、当日は筋肉痛で思うように走れなかった。それでも中学2年の時に駅伝のエース区間に抜擢され11人抜きをしてみせたり、800mや1500mの自己ベストを伸ばしたりと、その後も結果を出していたので顧問から激励されていたのだが、結局やる気が戻ることはその先なかった。
【第三章】―BLUE BLOOD―
陸上に興味が失くなると同時に、また音楽への熱が戻ってきた。きっかけは兄が始めたギターだった。兄が高校に入りエレキギターを親からプレゼントしてもらい、近くの楽器屋「K楽器社」にレッスンを受けに行っていた。その頃兄に「これ聴いてみ、めちゃかっこええで」と渡されたカセットテープに入っていた1曲に感化され、自分もギターをやってみようと思った。その時の曲がレッド・ツェッペリンの名曲「天国への階段 (Stairway To Heaven)」。ギター・イントロから始まり後半は激しくロックする、なんてかっこいいんだ!こんな不思議な感覚は味わったことがなかった。
思い立ったら行動に移すのが早い僕は、兄のギターを手に取り、家にあった楽譜集の中から「天国への階段」を見つける。その楽譜は、ギターのどの部分を押さえたり弾いたりするかを数字で表す、「TAB」という手法を使っていた。TAB譜のシステムを理解するにはさほど時間が掛からず、その曲を30分程で弾けるようになった。一度熱中するととことんやりまくる性格なので、それからはギターを弾きまくる毎日だった。いろんな曲のTAB譜を見つけては弾いて見つけては弾いて、その繰り返し。ヴェンチャーズの「パイプライン」もその中の一つだった。リズムの読み方もバイオリンとピアノをやっていたお陰で問題無くこなせた。
TAB譜に慣れてきたら次はコードの押さえ方を覚え、コードの次はペンタトニックスケールを練習し、ブルーズに合わせて思うがままそのスケール使いディストーションをかけ弾き倒したりしていた。兄は筋金入りのブルーズファンで、兄と父の持っているブルーズのCDをよく聴きながらギターをかき鳴らした。当時気に入っていた曲はオーティス・レディングの歌う「ノック・オン・ウッド」、そしてスティーヴィー・レイ・ヴォーンの「メアリー・ハッド・ア・リトル・ラム」だった。
ギターに熱中
そしてある日、レンタルCDショップに出向いた。お目当てのCDの在庫が無かったので何を借りようかと悩んでいると「X JAPAN」(以下、X)の文字が目に飛び込んできた。あまりよく知らないバンドだけど、何故だか分からないが借りなければ、という衝動に駆られその当時の最新作「Dahlia」というアルバムを借りてみた。ここで確実に僕の人生は大きく変わった。
まずXの音楽がとにかく格好良すぎて、完全にのめり込んでしまったのだ。それまでビートルズやブルーズをよく聴いていた少年が、急にメロディアスなスラッシュメタルへの興味を持ち始め、それからというものX三昧の日々だった。レンタルショップに行ってはXのそれまでのアルバムを借り、楽譜を購入してギターをコピーする、そんなことばっかりしていた。
それでも、XにはYoshikiという絶対的カリスマが存在し、徐々に興味はそちらに移っていった。Yoshikiはドラマーだけでなく、ピアノも弾きXのほぼ全ての作詞作曲までしている。ピアノが出来た僕は、まずYoshikiが弾いているピアノのパートを練習したりしていた。がしかし、やっぱりドラムを叩いているYoshikiに凄く憧れた。だから自分も兄と同じように「高校に上がったらドラムを買ってもらいたい」と親に懇願するようになった。この時期から自分はバンドをしたい、と思うようになり、将来はミュージシャンになりたい、という夢を持つようになっていた。ドラムをやっていた父の遺伝なのか何故だか分からないが、自分はドラマーにならないといけないという使命がどこかにあった。そしてドラムをまだ一度も叩いたことが無いくせに、「自分は必ず成功する」という謎の自信を持っていた。
そして中学三年になった頃には、Yoshikiの影響を受けて自分でもピアノで作曲するようになっていた。その曲をピアノで弾きテープに録音し、友人たちに聴かせ優越感に浸っていたのだ。また、学校での授業中に作詞をしたりしていたのだが、今思い返すと本当に恥ずかしいことだらけだったと思う。でもそんな日々があったから今の自分にも繋がっているのだろう。
ピアノで作曲
そんな中、Xのギタリストhideの突然の逝去。ゴールデンウィークの朝、「hideが死んだってニュースで言ってる!」と母に叩き起こされ「絶対嘘やん」と僕を起こすための冗談だと思っていた。そしてリビングまで行きテレビを観るとそのニュースが流れていた。当時Xマニアだった僕はその場で泣き崩れ、同じくX好きだったいとこに電話し、どれだけ悲しいかを伝えた。優しいいとこはわざわざ神戸から大阪までやってきてくれ、その日は一日Xとhideの話をしていた。そして一日が終わり眠りにつく頃、僕はXの「Tears」をラジカセで流しhideのことを想い泣きながら歌った。
そしてゴールデンウィークも終わり、中学三年生の一学期は過ぎ去り夏休みに入った。
【第四章】―ネーピア―
僕の家庭では、母の育った家庭環境から海外への強い憧れがあり、「せめてもの」という想いも含め様々な国からの交換留学生を積極的に受け入れていた。アメリカ、イギリス、カナダ、スイス、バングラデシュ、台湾などなどの国から、長ければ1年間一緒に生活を共にした。
また、母は「子供たちには海外に出るという選択肢も与えてあげたい」という想いを持っていて、幼い頃から英語を学ばせてもらっていた。それが強制的な形ではなく、本当に楽しく自然に英語に慣れ親しむことのできる英会話教室だったので、その言語を話す楽しさというのも覚えた。
だから、兄が高校二年生の三学期に、これまで留学生の受け入れを行っていた団体を通してニュージーランドの高校に1年間留学したのもごく自然な流れであった。ところが、これまでずっと一緒に生活をしていた兄が急にいなくなり寂しくなったせいもあるのかもしれないが、当時中学二・三年生の自分は人生の中で一番の反抗期であったと思う。子供を早くに海外に出した親は自分よりも何倍も寂しく辛かったに違いないのに、たくさん迷惑を掛けたことを申し訳なく思う。その後も幾度となく親を悩ませたと思うが、それは反抗期ではなく若気の至りであったと思いたい。
さて、そんな中でも自分の人生にとてもプラスになる大事な出来事はあった。親が「どうせなら夏休みに進也も1か月ニュージーランドに語学留学したらどうや?」と提案した。というのも、兄は中学二年生の時にも一度同じように夏休みを使ってニュージーランドに1か月ほど留学したことがあり、それを自分もしたらどうかということだった。受験を控えた大事な時期に海外へ行くなんて、と周りからは冷たい目や変な目で見られたが、それを気にせずやってしまうのが福盛家。兄の様子を見に行くという口実もあり(あと、自分がとにもかくにも心配をかける息子だったからだろう)、母と一緒にニュージーランドへと渡った。
母と僕がお世話になったのはネーピアという北島に位置するとても小さな町の語学学校。当時兄は全く違う場所に留学していたのだが、あえてあまり会わない方が成長できるという思いもあり、兄も中学二年生の時にお世話になったこの町、この学校に決まった。とても自然が多く緑が豊かで、大阪とは言葉通り別世界だった。緑の町を自転車で走り、誰もいない綺麗な並木道を通り抜け、坂を登ると学校がある。なんとも気持ちの良い町で1か月過ごした。
ネーピアにて
母と僕は別々のホスト・ファミリーのところで暮らし、別々の生活を送った。学校でもクラスが違ったので自然と他の学生とも仲良くなり、最年少だった自分をみんな可愛がってくれた。もちろん当時Xファンだった僕は、みんなにXの良さを知ってほしいと思い、通学していた時に使っていたウォークマンを取り出し現地の先生たちに聴かせたり、音楽の話がとにかく多かった。そして仲の良かった学生の一人が「X好きだったらこういうのも好きじゃない?」とあるバンドのアルバムを教えてくれた。マリリン・マンソンの『アンチクライスト・スーパースター』、それを聴いた僕はものすごく深い興奮を覚えた。そしてその友達と早速町のCDショップにそのアルバムを買いに行き、毎日そのアルバムを聴いていた。このアルバムは間違いなく名盤であり、今でもたまに聴き返したりする。その後マリリン・マンソンのアルバムを聴き続けたが、この作品こそがベストだった。同じくメタリカの『ブラック・アルバム』も薦められよく聴いたが、僕には断然マリリン・マンソンの方が格好良く聞こえた。 でもホスト・ファミリーの子供たちは「好きだけど言葉が悪いから親が聴かせてくれない」と嘆いていた。その可哀想な彼らが親のいないところで、「スウィート・ドリームス」という曲がお薦めだとこっそり教えてくれた。
また、その滞在中に映画館で観た『グリース』も今でも大好きだ。ミュージカル映画が苦手な僕が唯一楽しめる最高の映画、ジョン・トラボルタがめちゃくちゃカッコいい!
ホスト・ファミリーと
その後、少しだけ兄に会いに行き、通っている高校を見せてもらったりもした。日本の学校との違いに驚愕した。兄はその学校でドラムのレッスンを受けていたらしく、「ここで練習できるねん」とドラムの置いてある部屋を見せてくれたり、自由度の高い校風、そしてドラムを叩ける環境がとても羨ましく思えた。また、兄ととても仲の良い友達はDJをやっていて、壊れたバスをリフォームした、中高生なら誰もが憧れるようなイカしたDJルームを家のそばに持っていて一緒に遊んだりした。
そんな1か月の刺激的な生活を終え、兄を残して僕たち親子は帰国した。関西空港まで迎えに来たボサボサ頭の父を見て、可笑しそうに微笑んだ母を今でも覚えている。
母と兄と
【第五章】―第一歩―
中学生最後の夏休みが終わり、周りは一気に受験一色となった。いや、世間はもっと前から既にそうだったのかもしれないが、ニュージーランドから帰ってきた僕は、やっとそこで受験生であったということを思い出したのだ。そして受験校を決める頃、学校で三者面談があったのだが、その時の出来事は今でも忘れはしない。
S村先生「お前は将来何がしたいんや?」
僕「音楽をやってプロになりたい」
S村先生は自分のクラスの担任を受け持っていたが、同時にその学校の音楽の先生でもあった。気が強く厳しい指導で有名だったS村先生は、答え終わった僕を見てフンっと鼻で笑い、「音楽? 今まで音楽の勉強をちゃんとしてきたことがあるんか? 無理に決まってるやろ」と、これからの僕の将来を完全に否定した。こういう先生がいる限り日本の教育は変わらないだろうな、と母と二人で怒りを露わにしながら自転車で帰った。
高校入学
余談だが、昨年(2018年)の4月、僕の地元の阿倍野で自身のECMのトリオを引き連れ演奏をした時に、なんとあのS村先生が観に来ていたのだ! 演奏が終わりサイン会の会場に向かう途中に知り合いから、「S村先生が来てるよ!」と呼び止められた。すると、歳を重ね、厳しかったあの頃とは違うとても柔らかい表情で、そして嬉しそうな笑顔と涙で僕を見つめながらS村先生は現れた。特にお互い発する言葉は無く、ただ握手を長い時間交わした。一言「どうもありがとうございました」と声をかけ、以前とは一回り小さく見えたS村先生を後に会場へと歩きながら、長年の遺恨が少し和らいだように思えた。
三者面談の後、幾度となく親に迷惑を掛けながらも、なんとか無事に受験を終わらせ高校へと進学した。卒業後の春休みのある日、家で一人でぼーっとテレビを観ていると、たくさんの荷物を抱えた兄が玄関から入ってきた。何事かと見に行くと、その後に父も続いて荷物を運んでいた。その中身はまさに電子ドラムであり、かつて兄がギターを買ってもらったように、自分も高校の入学祝いに電子ドラムをプレゼントしてもらったのだ。嬉しかった僕はすぐに組み立てたのだが、アンプに繋がないと音が出ないことを知り、兄も通っていたK楽器社へ父と一緒にベース・アンプを買いに行った。ようやく音を出すことに成功し、デタラメだけどガムシャラにそのドラムを叩き、なんとも言えない幸福感を味わった。
それから数日経ったある日、音楽好きの友達の家で僕は電話帳をめくっていた。高校に入ったらドラムをやると決めていた僕は、近所にある楽器屋を片っ端から調べていたのだ。いくつかあったものの、直感で「ここにしよう」とその場でA音楽教室に電話をかけてみた。受付の人と話し「ドラムを習いたい」と伝えると、次の水曜日にレッスンがあるので見学に来なさい、という流れになった。自転車で教室にたどり着いた水曜日の夕方、ドキドキしながら教室のドアを開け、レッスンを見学させてもらった。夕方の薄暗い雰囲気の中、塾とか英会話教室にもある、あの独特の教室の匂い。緊張しながら心が踊った。レッスンは30分と60分のコースがあったのだが、プロになると決めていた僕は、もちろん60分コースを希望した。最初の30分は練習パッドを使い基礎練習、身体の使い方や基本的なリズムの取り方を学ぶ。そして後半30分はドラム・セットを使っての実技。曲に合わせて叩いたり、身体をいかにスムーズに動かすか、とても興味深い内容だった。自分も見学した内容ならすぐにできると思ったし、さらに奥深いところまで知りたい欲求に駆られた。そして、そこで出逢ったS田先生になぜかとても惹かれ、このA音楽教室に月に二回、ドラムのレッスンに通うことを決意した。
電子ドラムでセッション
初めてのレッスン、「好きなドラマーは?」とS田先生に訊かれ、迷わず「XのYoshiki」と答えた。またその頃からディープ・パープルにハマりだし、「イアン・ペイスも好きです」と続けた。その答えを聞いたS田先生はさぞかし自分のことをロック少年だと思っただろうし、実際そうであったのだが、今の自分の音楽性を追求する姿なんてとうてい想像できなかっただろう。
そして、ようやくドラマーとしての第一歩を踏み出し、また、この後S田先生から学んだ多くのことが自分のドラマー人生を大きく左右するものであったことは間違いない。
【第六章】―Let It Be―
「軽音楽部」という響きに中学生の僕は随分憧れた。父が大学生の時にその「軽音楽部」とやらいうやつに入り「ロック」とかいうめちゃめちゃカッコいい音楽をやっていた、とどこかで認識していたからだ。だから高校に入るとドラムを始め、絶対にその「軽音楽部」に入ってやる、と心に決めていた。
晴れて高校に進学した僕は、キラキラと、そしてドキドキとした気持ちで担任の先生のもとへと質問しに向かった。もちろんその質問は「軽音楽部に入りたいのですがどうしたらいいですか?」ということだったのだが、返ってきた担任の意外な言葉に僕は驚いた。
「この学校に軽音楽部は無い」
なんとも無情な一言に僕は一瞬どうしていいか分からなかった。が、次に続いた一言にある希望を見つけた。
「ギター部ならあるぞ」
なるほど! 軽音楽部は無いが、ギター部はある! それなら、無いものは作ってしまえば良いんだ!と閃き、ギター部の顧問を見つけ出し「軽音楽部を作らしてくれ!」と頼みに言った。ギター部は基本クラシック・ギターを弾くだけの部活だったので、その顧問は軽音楽部に関しては一切興味無さそうだったが、とりあえずオーケーを出してくれた。ただ、新しい部活を始めるというのはそんなに簡単なことではないので、「ギター部の中に存在する軽音楽部」という形になり、自分は創始者兼部長となり喜びに満ちた。その頃、たまたま化学のテストで100点を取り、英語の模試でも学年2位になったことがクラスにも公表され、「軽音楽部の部長で勉強もできる! これは絶対にモテる!」と思ったが、その先の高校生活で勉強など一切せず、バカな連中とバカなことばっかりやって遊んでいた自分がモテるはずもなく、そんな風に思ってしまった当時の自分を殴ってやりたい。
ギターで遊ぶ
そんなことはさておき。ようやく軽音楽部を始動させようと思ったが、もちろん部員はまだ僕だけしかいないので、バンドなんてできるはずもない。ということで、僕はクラスの仲良い友達で、楽器に興味あるやつらにどんどんと声をかけていった。その噂は他クラスにも広がりあっという間に10人ほど集まり、やっと部活らしくなった。しかし、だ。軽音楽部が今まで無かった高校に演奏できる施設などあるわけないし、そもそもドラム・セットすらどこにもなかった。音楽室に行けば一応あるにはあるのだが、そこは伝統ある吹奏楽部の連中にすでに支配されていた。ギター部の顧問に相談しても興味が無いので全く頼りにならない。そんな中、同じクラスのYが「うちに古いドラムやったらあるで」と教えてくれた。Yは僕と同じくドラマー志望で、また、奇遇なことに生まれつき片耳が聞こえないのであった。僕が左耳が聞こえないのに対し、Yは右耳が聞こえなかった。だからいつも立ち位置は、僕が左でYが右、困ることは無かった。そんなYの家は、ほぼ和歌山と言ってもいいぐらい南にあり、片道でも1時間ほどかかるところに位置していた。ただ、「無いものは自分たちで!」と自然とそうなっていた僕たちは、往復の時間や荷物の量など気にせず「ほぼ和歌山」までドラムを取りにいった。数時間に渡る運搬が終わり、放課後、屋上にある部室という名の倉庫にドラムを運び入れた。そこにある窓からグラウンドを見下ろし、運び終えた僕らは共通の充実感を味わいながら、狭くて臭い「倉庫」で汗を拭いた。また、その時に飲んだなんてことない水が、とても美味しく感じられた。
ドラムを運び入れたもののまだ練習する場所が無く、僕たち部員は放課後の教室に集まってだべっていた。好きなバンドは? どんな音楽やりたい?などなど、みんな口々に好きなように話していた。みんな、当時流行っていたGLAY、L'Arc~en~Ciel、Hi-STANDARDなどを挙げていたが、僕だけひとり、マリリン・マンソンの話をし、「すげー変態」が現れた!とみんなに笑われた。しかしながら、自分が人と違うことにどこかしら優越感を抱いていた。
ドラムで遊ぶ
そうやって休み時間や放課後に集まり、ギターを弾いたり話したりして僕らはその時間を楽しんでいた。でもやっぱりみんなで演奏をしたい、と思っていたある日、カナダから来ている英語の特別教師のマークが僕らを呼び出した。マークはギターをやっており、アマチュアでバンドもやっていたらしい。そんな音楽好きのマークが僕らと一緒に音楽をやりたくて、わざわざ学校のホールを放課後借りてくれた。そこにドラムやらギター・アンプやらを運び、やっとみんなで演奏できることになった! その時に、この曲をやろう、とマークが言ったのがザ・ビートルズの「レット・イット・ビー」だった。みんなコードも音程もリズムもボロボロになりながらも、一緒に音を出せるこの瞬間を心から楽しんだ。そして、それは何にも負けない気持ちの良いものだった。
【第七章】―初舞台(前編)―
軽音楽部の連中と仲良く音楽の話をする毎日が続き、ある休みの日に電話が鳴った。
「福盛、お前今からドラム叩きに来てくれへんか?」
同じ軽音楽部に所属していたIからの急な誘いだった。どうやらバンド練習をやろうと思っていたらしく、急にドラマーが来られなくなった(後で聞くと、そのドラマーとはソリが合わずに他にすでに探していたらしい)ので自分に電話をかけてきた、ということだった。初めてのバンド活動ができることに気分は高まり、二つ返事で練習しているスタジオに急いで向かった。スタジオに到着し、部屋に入ると見慣れた顔が並んでいた。Iの他にも部活に顔を出していたメンバーが数人いた。ベーシストだけ他の高校から来ていたのだが、彼はギタリストKの地元の友達で、みんなともすぐに打ち解けることができた。そして、僕はドラムをセッティングし、腰を掛けた。
「何の曲やる?」
と、声を掛けてみる。以前にも書いたが、当時の流行りはGLAYとかL'Arc~en~Cielだったので、メンバーもそれらのバンドの曲をやりたがった。Deep Purpleファンの僕はハードロックをやりたかったが、そこはしょうがない。とりあえずGLAYの「誘惑」という曲をやることになった。GLAYのファンではないものの、知らない曲ではなかったので異論は無かった。
タカタカタッタッ タッタッタッタ
タッタッタッタ タッタッタッタ!
聴き慣れたイントロをドラムから始め、それに合わせてギターとベースが入ってくる。その一体感に興奮しながらイントロを叩き終え、ボーカルがメロディを歌い始める。前に学校のホールでみんなで演奏した「レット・イット・ビー」とはまた違う心地よさ。バンドとしてのサウンドがとにかくこれ以上ない程気持ち良かった。
その後、僕らは定期的にスタジオに集まり、自分たちの好きな曲を練習した。そんなある日、Kからある提案があった。僕たちの高校の文化祭でバンド演奏の募集をしているみたいだから出てみないか、と。答えは聞くまでも無く、全員一緒だった。人前で演奏できることにテンションが上がり、一層やる気が出た。会議の結果、文化祭で演奏するは3曲に絞られた。L'Arc~en~Cielの「Blurry Eyes」、GLAYの「SHUTTER SPEEDSのテーマ」、そしてみんなと初めてやった「誘惑」。ボーカルのT、ギタリストのKとI、ベーシストのS、そして僕の5人は来る日も来る日も楽譜を見ながらこの3曲を練習した。僕もドラムのレッスンに楽譜を持って行き、ドラム・パートをどうやって叩くか教えてもらった。その曲は、16分音符をハイハットで続けて刻む、所謂16ビートというグルーブを多用していたのだが、初心者の僕には到底できるはずなく、その刻む回数を半分にした8ビートをとりあえずキープできるように手ほどきを受けた。今振り返って考えるととてもシンプルなことだが、いくつも目から鱗が落ちるようなレッスンに胸は弾んだ。
そしていよいよ文化祭当日。前日もスタジオに入って練習していたが、やはり朝から緊張感が高まっていた。自転車に乗り学校に到着すると、すでにお祭りの雰囲気が漂っていた。朝礼が終わり、文化祭が始まる。学校中がワイワイガヤガヤする中、僕たちバンド・メンバーは緊張した面持ちで集まった。みんなが気合を入れて自分の衣装を見せ合う中、ファッションに全く興味の無い僕は何も着るものが無く、Kが持ってきたタンクトップを貸してもらった。その後、何を会話したかは覚えていないが、とにかくこの演奏に全てをかける気持ちだけは全員が持っていた。昼過ぎ、ホールで音楽祭が始まる。僕らの出番は確か2番目だったと思う。前のバンドが演奏するのを上の空で観ながら、出番が近くなるのを待ち、僕の鼓動はどんどん早くなる。地元の友達、同級生、両親、そしてただ単に音楽に興味を持った学生や先生たち、たくさんの人がいる中で僕らの出番が回ってきた。僕ら5人は、初めてのステージに足がもつれそうになりながら、心を落ち着かせ自分の位置についた。本来ならそこでシンバルの高さやらチューニングやらセッティングするはずなのだが、そういった知識も経験も全くない僕は、手前にあったシンバルを少し下げただけで、軽くウォームアップ程度にドラムを叩いた。前のバンドの演奏も緊張からか早く終わり、僕らが演奏を開始するまでしばらく時間があった。いっそのことなら早く始めたかったが、学校行事だし時間きっちりに始めないといけなかった。知った顔がたくさん観客席に並ぶ中、どうにもできない居心地の悪さを感じていた。地元の友達が手を振ったり「進也ー!」と叫んで和ませてくれたりもしたが、どうにも緊張は解けなかった。本当はそんなに長くなかったのだろうが、体感的には永遠のような時間が過ぎ去り、ようやく演奏開始の時間が来た。
セッティング中
演奏直前
【第八章】―初舞台(後編)―
会場が少し暗くなる。演奏開始の時間が遂にやってきたのだ。僕たちは心を決め、練習してきた3曲を最高のものにしてやろうと思った。すると、ボーカルのTがキョロキョロしながらみんなに確認を取り、開始の挨拶を始めた。
「え~っと、じゃあラルクの『Blurry Eyes』をやります。」
なんだ、このクソみたいなMCは! 第一声がそれか!と、今ならツッコメるのだろうけど、僕らは硬直しかけの5人。誰も何のフォローもできずに心の準備だけを済ませる。Tが大きく息を吸い込み、緊張感が伝わってくる。そして僕はハイハットでカウントを始めた。
シャーン、シャーン、シャーン、シャーン!!
「Blurry Eyes」のテンポを出し、みんなで勢いよくイントロを始めた! かに思えたが、ギターのKとIがとんでもないミスをし演奏をやめてしまう。そしてそれに釣られるようにストップするSと僕。失笑する会場、キレ始めるボーカルS。空気は最悪だ。
「もっかいいきます、すんません…」
気を取り直してもう一度カウントから始める。が、しかし! またもや同じミスを繰り返すKとI!! 当然の様に演奏は止まり、もうどうしていいか分からないステージ上の5人。僕の地元の友達が「気にせんでええよ~」と優しく声を掛けてくれていたのだが、そんな声は耳に入らず、怒りに拍車がかかるボーカルのTが怒鳴る。
「止まんなよ!!」
かくいう僕は、「自分のミスじゃないし、俺はあまりかっこ悪くないはず」と、とんでもなく自己中心的に考えていた。次はもう流石に失敗できないぞ、と思い同じ曲の3度目のカウントを始めた。うまくいってくれ、と神に祈りながらようやく魔のイントロからの脱出に成功した。ボロボロになりながらもなんとか1曲目を終え、なんともやるせない気持ちになっていた。こんなことをまだあと2曲も続けないといけないのか。そう思うと心が折れそうだった。
「すみませんでした…」
Tが観客に向けて心なく呟く。直後に「謝らんでもええがな」と客席から父の声が。次の曲はベースのSがフィーチャーされる曲だ、なんとかここで持ち直したい。そう思いながら、ベースイントロが始まり、それといった大きなミスも無く「SHUTTER SPEEDSのテーマ」を安定したまま終えることができた。この曲が終わり、ようやくバンドも少し楽になり気持ちも落ち着いてきた。次は最後の曲だ、ビシッと決めたい。
「え~、『誘惑』をやります」
相変わらず締まらないTのMCだったが、3曲の中で一番有名で人気のある曲だったせいか、会場からは声援があがり盛り上がり始めた。この曲はドラムから始まる、俺がイントロをキメてやる。そう自分に言い聞かせ、勢いよく何度も練習したドラム・イントロを始めた。
タカタカタッタッ タッタッタッタ
タッタッタッタ タッタッタッタ!
自信を持って叩いたせいか、会場の空気も少し締まったように思えた。興奮と緊張で少しテンポは早いがいい感じだ! そのままイントロを無事に終わらせ、ボーカルが入る。そして観客も聴き慣れたメロディに耳を澄ませる。順調にAメロ、Bメロと進みいよいよサビがやってくる! …はずだったが、さっきまで怒っていたTのやつ、なんとサビの入りを完全に見失ってしまったのだ! そのまま演奏は続き、Tは1番のサビを一切歌わず、僕たちは間奏に入ってしまった。なんということだ、またしてもこんな凡ミスが起こるのか…だがしかし、そんなことにはもう構ってられない。Kのギター・ソロが始まり、相当練習した甲斐もあって滑らかに進んだ。ようやくKも自分の見せ場を作ることができ、バンドの勢いも戻ってきた。間奏が終わり、Bメロに戻ってくる。今度はちゃんとサビに入ってくれよ、と期待を込めて演奏し、そしてTもそれに応えた。最後のサビでやっとバンドらしく僕らは演奏することができ、エンディングもうまくキマった。観客もそれなりに反応してくれ、興奮冷めやまぬまま余韻に浸りたいところだったが、次のバンドのセッティクもあるのですぐに舞台上からはけた。荷物を片付けている時に最初にやった上級生のバンドのドラマーが自分のところにやってきた。
先輩「自分なかなかうまいな~、ドラム始めてどのくらい?」
僕「まだ半年ぐらいです」
先輩「そうなんや、しっかり基礎できるしすごいな~。ちなみにバスドラムはこうやって踏んだり色々研究してみたらいいで」
と、自分の演奏を褒め、アドバイスまでくれた。それまで知らなかった者同士が、ドラムという楽器をフィルターに心が通じあった。それは自分にとって嬉しいできごとであったし、音楽が繋げる物語や出逢いに感動した。
文化祭本番
なんとか演奏を終えステージ袖に集まった僕たちメンバーは、改めて本気でバンドを組もうと誓った。ただ一番ミスの多かったギターのIはクビになり、そのまま残った4人でバンドを結成した。これが僕のバンド生活の始まりであった。
【第九章】―情熱のアフロ―
文化祭での演奏が終わり、僕たちは本格的にバンド活動を始めた。レパートリーも増え、徐々にバンドとしてのまとまりも良くなってきた様に感じられた。前に挙げたGLAYやL'Arc~en~Cielだけでなく、当時爆発的な人気を持っていたHi-STANDARDやグリーン・デイなどのパンク的な音楽のカヴァーもやったりした。大阪の堺市の方にあるスタジオに僕らはよく集まり、バンド練習が終わると近くの安い牛丼屋で腹を満たすのが恒例となっていた。そして、そろそろバンド名を決めないといけないなという時期が来たのだが、あろうことか僕はその名前をすっかり忘れてしまい、どうしても思い出せない。確か僕らが好きなバンドの曲名に因んだものだったように思う。ただその時に、ディープ・パープルの由来やニルヴァーナが他の同名バンドと名前を巡って裁判沙汰になったことなど、色々調べたりして面白かった記憶がある。
その後、スタジオから比較的近いところに住んでいたギターのKの家によく集まり、一緒に音楽を聴いたりバカなことを話したりしていた。そういった流れから、自然とKがバンドのリーダー的存在になっていた。僕はたまにKの家に泊まったりもし、夜中に酒とタバコを忍ばせてKの部屋で夢を語り合った。真っ暗な部屋に少しだけ入る街灯の光。日本酒を片手にタバコを吸いながら、少しだけ幻想的な雰囲気の中、僕らはYEN TOWN BANDの「Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜」をかけ、その音を静かに楽しんだ。もしかすると、自分の音楽を通して聴いてもらっている人々に感じてほしいものは、その、少しだけ幻想的なあの時の情景なのかもしれない。
そうこうしているうちに、文化祭から数か月が過ぎ、僕たちの初ライヴが決まった。場所は大阪、三国ヶ丘にあるライヴ・ハウスだった。対バン形式で僕らを含めて合計4バンドくらいいたと思う。チケットは一枚2,000円でバンドあたり数十枚捌かないといけないという、高校生にとってはなかなか厳しいノルマ制だった。同級生で仲の良い友達を呼んだりしたが、やはり全部は売り切れず、残ったチケット代は自腹でライヴ・ハウスに渡した。ただそれでも、僕らは初ライヴということに心踊り、必死に練習をする日々を送った。バンドとしての一体感も更によくなり、みんなが一つになり演奏できることが何よりも嬉しかった。
セッション・タイム
本番当日、学校が終わるとすぐに会場に向かった。まずはサウンドチェックなのだが、これまで一度もサウンドチェックをしたことない僕らは、一体何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。ドラムのチェック、バス・ドラムを何度も踏んだりスネアを叩いたりしたけど、僕にはその音がどう違うのかが全く分からなかった。そうしてサウンドチェックが終わり、ライヴ・ハウスの向かいにある雑居ビルの2階の楽屋へと。もちろん、対バン形式なので他のバンドのメンバーたちもそこで待機していた。初めての体験に緊張する僕ら、そしてその横で慣れたようにギターをかき鳴らしたり、スティックを振ったりする他バンド。僕らも気を紛らわすために、一丁前にビールを飲みタバコを吸ったりして心を落ち着かせた。
そして本番へ。もちろん僕らは一番下っ端なので、トップバッターでの演奏。文化祭が終わってから何度もリハーサルをしたので今回は大丈夫だ、自信がある。いよいよ演奏が始まるという時に僕はタンクトップに着替え、アフロのカツラを被った! そう、このバンドでの僕の出で立ちはタンクトップ・アフロだったのだ!! ただ、引っ込み思案の僕はその出で立ちだからといって特別目立とうとするわけでもなく、そのまま普通に演奏をした。
1曲目はGLAYの「MISERY」という曲。この曲はX Japanのギタリストhideのオリジナルで、GLAYがカヴァーしたヴァージョンを僕らはいつも1曲目に演っていた。16分音符の速いタム回しがあるのだが、単純に聴こえて難しかったことを覚えている。他にも恒例の曲があって、メンバー紹介の時はTHE MICHELLE GUN ELEPHANTの「CISCO」という曲に乗せて、メンバー各々がアドリブでソロを取り盛り上げたりもした。
これをきっかけに、その後何度かライヴをしたのだが、L'Arc~en~Cielのような曲を歌いたかったヴォーカルのTは脱退、そしてギター&ヴォーカルとして新しくメンバーも入ったのだが、次は僕が脱退した。やっぱりディープ・パープルやジェフ・ベック、ジミヘンみたいなロックを僕はやりたかったのだ。泣きながらメンバーから電話がかかってきたり、苦しい決断だったが、自分のやりたい音楽に妥協はできなく、その後一緒に演奏することはなかった。
そうやって僕らが自分のバンドに専念しているうちに、僕の立ち上げた「軽音楽部」は自然消滅していた。やはりそれほど熱のあるやつはいなかったし、長続きはしなかっのだ。その後、僕はギター部に残り、先輩たちと一緒にクラシック・ギターを弾いたり、コンクールを観にいったりしたが、それも長く続かず退部することになった。
短いバンド生活だったけど、色んな青春の場面があってとても楽しかった。二度と経験できないだろうあの頃の音楽への情熱は、ずっと心に残っているだろう。
【第十章】―500 Miles High―
バンド活動も辞め、完全な帰宅部となった僕は、残りの高校生活を何の情熱もかけずに過ごした。ドラムや音楽に努力を注ぐこともなく、ただただ悪友と毎日どうしようもない日々を送っていた。別に非行に走ったというほどでもないが、ティーンエイジャー特有の、何の理由もなく「悪ぶりたい」、という一種の病気のようなものにでもかかっていたのかもしれない。タバコを吸ったり、お酒を飲んだり、バイクに乗ったり、喧嘩をしたり、特に何かに不満があるのかと言えばそうではないし、でも全てに満足しているかといえば素直に肯定もできない。良く言えば「青春」、悪く言えばただの「バカ」。そんな毎日を過ごしていた。呆れた親には何度も「もうドラムも辞めるか?」と訊かれたこともあったが、なぜだかそれだけは避けないといけない、と心のどこかで思い、やる気は無いにせよドラムだけは続けた。また、今でも唯一高校時代から繋がっているのは、その「青春」もしくは「バカ」の日々を共に過ごし分かり合えた悪友たちだけであり、それは僕の中ではずっと大切にしたいものでもある。
そんな中、転機が訪れる。以前ニュージーランドに留学していた兄が、今度はアメリカの大学に留学することになった。場所はロサンゼルス、アメリカ有数の大都市だ。兄が日本を離れ一年が過ぎたころだったっただろうか、僕は兄を訪れた。福盛進也、高校2年生の冬のことである。LAの空港に到着し、兄にピックアップしてもらう。そして兄の住むアパートに着くや否や、「これからジャズ・クラブに行く、これは絶対観た方がいい」、とすぐさま外に連れ出された。到着したのはLAの有名なジャズ・クラブ、カタリナ・バー&グリル。そしてそこで演奏をしていたのは、当時アルバムをリリースしたばっかりのチック・コリア・ニュー・トリオであった。初めてのジャズ・クラブの雰囲気の中、どんな音楽が演奏されるのかワクワクしながら待つ。そしていよいよ演奏が始まり、僕は完全に打ちのめされた。今まで聴いたことのない、とてつもなくカッコいい音楽に衝撃を受けまくった。盛り上がりに盛り上がった後半、チック・コリアの妻のゲイル・モランがゲストでステージに上がる。ゆっくり始まるイントロ、そしてブレイクを機にトリオがグルーヴを始める。ドラムのジェフ・バラードがドラムンベースのリズムを刻み、アヴィシャイ・コーエンがそれを支えつつも自由に突っ走る、そして歌うゲイルに反応するチック。
「なんなんだこの音楽は!?」
度肝を抜かれた僕は興奮を隠しきれなかった。そしてこれが、僕が人生で初めて生でジャズに触れた瞬間であった。
次の日、LAのCD屋に向かい、兄の友人にお勧めしてもらったチック・コリア・アコースティック・バンドの『スタンダーズ&モア (原題:Chick Corea Akoustic Band)』のアルバムを購入し、しばらくの間そればっかりを聴いていた。ちなみに、このアルバムにはあの有名な「Spain」が入っているのだが、オリジナルとは全く違うアレンジメントだったので、初めてオリジナルを聴いた時は相当驚いたことを覚えている。
LAでたっぷりと刺激的な毎日を楽しみ、その後日本に帰った僕は早速ブルーノート大阪に足を運んだ。あのチック・コリア・ニュー・トリオがツアーで今度は日本にやってきていたのだ! 開場1時間以上前に到着し、既に数人並んでいた列の後ろに陣取り、入場した瞬間に前の方の席を確保した。その時に食べたエビチリがとても美味しかったのを覚えているが、そんなことよりも何よりも、やっぱり彼らの演奏はもちろん最高だった。公演が終わり、新譜の『過去、現在、未来 (原題:Past, Present & Futures)』とTシャツを購入し、サインをもらうために楽屋へと向かった。その時にサインは1つまでとスタッフに忠告されていたのだが、チックを始めメンバー一同「もっとサインしていいよ」と笑顔で応えてくれ、アルバムとTシャツのみでなく、なんと僕の財布にまでサインをしてくれた。
チック・コリアと
そして帰る前に、バー・カウンターでタバコを吸っていると、サイン会を終えたアヴィシャイとジェフがやってきた。勇気を持って話しかけてみると「タバコを1本もらえないか?」とアヴィシャイがお願いしてきたので、「もちろん」と彼に差し出した。彼がタバコを吸っている間ジェフにも拙い英語で話しかけてみた。
「この前カタリナにも行って観たよ、素晴らしかった。僕もドラムを始めたばかりで、いつかプロになりたいなと思ってる」
そうやって熱い想いを伝えた。すると、
「そうか、ドラムをやっているのか。じゃあいつかお互いプロのドラマーとしてもっと有名になった時に再会しよう」
とジェフが返し、僕らは握手をして再会を誓った。
それから15年。ウンターファートというよく自分も演奏するミュンヘンのジャズ・クラブにウォルフガング・ムースピール・トリオの一員としてジェフがやって来た。演奏後、僕は話しかけに行き、15年前の出来事を話した。もちろんそんな昔のことを彼が覚えていることはなかったのだが、その後夜中まで一緒に飲み、2人ともベロンベロンに酔っ払い、15年前の約束をちゃんと果たせたのはとても感慨深いものであった。
【第十一章】―はじまりはじまり―
「あんたは日本におるより海外に行った方が絶対いい」
これは母親が10代の僕によく言った言葉だった。僕の性格や人間性を熟知した上でそう言ってくれていたんだと思うし、僕自身もいつからかそう思うようになっていた。高校に入ってから(それ以前もだが)ほとんど勉強もしてこなかったし、成績もだいぶ悪い方だった。学校の教え方も嫌いだったし、自分で見つけた数学の方程式を見せると「お前はそんなことせんでいい、ただ覚えて答えを出すだけでいい」というような教師がいたり、そんな教育環境で勉強に対する意欲など全く湧くことはなかった。ただ、英語だけはなぜかとても得意で学年でも上位に付けていた。海外に対しても全く恐怖心が無く、むしろ憧れていた。これはきっと幼少期から海外について触れる機会が多かったせいもあり、そのきっかけを作ってくれた両親にとても感謝をしている。プロのミュージシャンになりたいという夢、いや、そんなものではなかった。超一流のミュージシャンになってやろう、という強い想いがあり、いつしか海外で自分を試してみたいと思うようになっていた。
家族で国際交流
そして、兄がニュージーランドに行ったように自分もまず1年間留学してみようと決断した。というよりかは、本当にそういう流れになることが自然のように感じた。チック・コリアから生のジャズを体験させてもらったけれども、まだまだ自分はディープ・パープルに憧れたロック少年だった。ディープ・パープルだけでなくジェフ・ベックやレッド・ツェッペリンも大好きで、イギリスに留学したいなという気持ちが強かった。ところが、留学でお世話になっていた団体はイギリスと交流があまり無く、行き先の変更を余儀なくされた。でも大丈夫、そんなことは問題ない、超一流のミュージシャンになるには道筋はどうでもいい。具体的なゴールさえしっかりしていれば、計画なんて意味のないことだ。臨機応変に生きることが一番の近道だろう。ということで、僕は行き先を変更した。家では兄の影響でブルーズがよくかかっていたし、僕が好きだった70年代ハード・ロックの前身はブルーズだとよく理解していた(後にジャズからもとても影響を受けていたことも知る)。
よし、アメリカに行こう!
できれば南部で生活をし、生のブルーズやロックに触れながら武者修行をするんだ!
その後、最終面接を受け晴れて留学の許可が降りた。後はどこの都市に行くかだ。国は自分で決められたが都市に関しては団体が決めることになっていた。できるだけ日本人の少ない場所を選択し、英語だけで生活する環境を作ってあげたいという理由からであった。ただ自分が音楽好きということも考慮してくれ、最終的には素晴らしい留学先を選んでくれた。
Booker T. Washington High School for the Performing and Visual Arts(以下、Arts)。ロイ・ハーグローヴ、エリカ・バドゥ、そしてノラ・ジョーンズたちを輩出したテキサス州ダラスに位置する名門芸術高校だ。音楽だけでなく、ダンス、芸術、シアターと4つのクラスター(学部)に分かれており、そんな特別な高校を僕の留学先に選んでくれたのだ。そして僕はその高校史上初の留学生となるのであった。
高校3年生になり一学期が終わった。夏休みに入り、いよいよ留学する日が迫ってきた。アメリカでは8月半ば、もしくは9月から学年が開始するため日本では中途半端な時期になっていた。そしてニュージーランドに行った前回と同じく、「大学受験を控えたこの時期に留学するとか福盛家は頭がおかしい」と周りに思われたりもしていたが、僕には全く関係のないことだし心底どうでも良いと思った。いつも通っていた長居公園近くのカラオケで最後にもう一度盛り上がり、悪友たちに別れを告げた。いくつかのオリエンテーションを終え、飛行機が出発する東京へと行く日がやってきた。最後の最後まで両親を心配させた悪ガキも一人で旅立つ時が来たのだ。色々な寂しさと期待を胸に新幹線に乗り東京のホテルに夕方たどり着いた。僕はタバコを一箱買い、ホテルで一服をして早まる心を落ち着かせ、出発の日に備え床に就いた。
次の日、東京での最終オリエンテーションが終わり、空港に向かう。ダラス行きの飛行機に乗り、日本を後にした。
10年にも及ぶ長いアメリカ生活の、はじまりはじまり。
【第十二章】―ペガサス (前編)―
2001年8月7日。
時刻は夜の8時ぐらいだっただろうか。空が異様に明るく広かったのを覚えている。遂にやってきたのだ、アメリカ合衆国テキサス州ダラス。これから1年間のホームステイ生活。一体どんなことが待っているのか、期待で胸がいっぱいだった。
ダラスの空港に到着し、車でピックアップされ周りに何もないド田舎のキャンプ場のような施設に連れて行かれた。ホームステイが始まる前に現地でのオリエンテーションが2泊3日ほどあったのだ。留学生が数十人集まり、内容はどうやって英語で他人とコミュニケーションを取るか、ゲームや色々な企画を交えて行われた。だがやっているうちに僕は面倒臭くなり、「さっさとホームステイ先に連れてけ」と心の中で愚痴っていた。留学生同士で仲良くするつもりもさらさら無かったし、一刻でも早く自分がこれから住む環境に慣れたかったのだ。
留学サポート団体のスタッフと
やっとこさ退屈なオリエンテーションも終わり、いよいよホスト・ファミリーとご対面の時がやってきた。ホスト・ファーザーのジョンとホスト・ブラザーのスティーヴが迎えにきてくれた。緊張しながら挨拶を交わし、車に乗り込みこれから生活する家へと向かった、と思ったら途中で寄り道。Walmartというアメリカでは有名なホームセンターだ。入ってみるととにかくでかい!! 広い!! これがアメリカか!! 店だけではない、品物も全て日本よりワンサイズ大きかった。僕はたかがホームセンターに圧倒されまくり、ちょっとした感動まで覚えた。店だけではない、品物も全て日本よりワン、いやツーサイズ大きかった。そんなバカでかいWalmartを後にし、しばらく車で走り3人は家に着いた。ダラスのダウンタウンから車で10分程度に位置する一軒家、そこにはジョンの妻のメアリー、そしてスティーヴの妹のエマが待っていた。結果から言うと、最終的にはこの家族とはうまく打ち解けることができないまま1年が終わってしまった。ジョンは初めからあまり自分と話すこともせず、こちらが話しかけても無視されたりすることもあった。スティーヴとエマはどちらかというと引きこもりがちの兄妹で、だいたい部屋でゲームをしてるか1人静かに読書をしているか、人見知りだけど活発だった自分はあまり仲良くなれなかった。また、その家族は某宗教を深く信仰しており、それもお互いの間で壁になっていた。毎週日曜日になると教会へ連れて行こうとしたり、宗教上日曜日は夕食を食べなかったり(もちろん自分の食事も用意されず)、色々なことが自分にとっては苦痛だった。生活の中で自分の英語力も問題だったのかもしれないが、そこはホスト・ファミリーであれば一緒に克服してくれるぐらいのサポートはしてほしかった。留学の途中、さすがにもう無理だと思い、一度だけホスト・ファミリーを変えて欲しいと訴えたが、最終的には説得されてしまい最後までその家に残ることになった。ただ、そこで培った精神力は今になっても無駄ではなかったと信じている。そして唯一の救いだったのは、その家に置いてあるアップライトピアノで好きに遊べたことだった。
テキサスのマーケットにて
でもずっと辛い留学生活だったというわけではない。「家庭内」ではうまくいっていなかったが、学校生活、そして友人関係はとても充実していた。まず学校がスタートする前に簡単なオーディションがあった、もちろん音楽の。ドラマーとして認識されていたので、オーディションではドラムで基礎的なグルーヴやリズムなどを演奏させられ、結果合格をもらい正式にArts(前章参照)に通えることになった。そして授業は国語、アメリカ史、政治経済、物理などの一般教養に加え、音楽理論、音楽史、アンサンブルなどといった音楽の専門授業があった。ただ初めての留学生ということで、だいたいどこの高校にでもあるESLの授業は用意されておらず、自分は独学で英語を学ばなければなかった。だが結果的には自分にとってはこれが功を奏したと思っており、半年ぐらいで英語は問題なく話せるようになっていた。といっても、一般教養の授業は専門用語が多すぎて、理解するのにとても苦労した。いきなりシェイクスピアを読まされたり、ベトナム戦争の議論をしたり、とてもじゃないがついていけなかった。でもどの先生もとても素晴らしく、自分のことを見捨てず一緒になって課題や授業に取り組んでくれた。また、物理の授業は結構楽しく、最初に隣に座ったオリヴィアとはその後ずっとペアを組み、一緒に問題を解いたりバカな話をしたり仲良くさせてもらった。
オリヴィアもそうだが、みんなこうやって普通に一般教養を学んでいたけれども、一歩自分の分野に入ると(オリヴィアはシンガー)とても輝く逸材ばっかりだった。そう、やはりこの学校は芸術の授業が素晴らしかったのだ。そして、みんなどこか自由だった。
【第十三章】―ペガサス (中編)―
学校が始まりしばらく経ち、友達も増え充実した毎日を送っていた。そんな中、やはり刺激的だったのは演奏をする授業だった。僕は通称「バンド」と呼ばれる吹奏楽のアンサンブルに入っていた。ドラムだけでなく鍵盤打楽器やシンバル、大太鼓など様々なパーカッションを経験することで音楽的なアプローチをたくさん学んだ。バッハからコール・ポーターまで、あらゆる音楽を演奏し、非常に有意義な時間を過ごさせてもらった。また、その「バンド」から派生したパーカッション・アンサンブルでも演奏をしたり、また時には校外のコンテンストに出たりと、日本での普通の高校ではなかなか経験できない内容がとても楽しかった。
バンドのコンサート
また、「バンド」以外にももう一つアンサンブルがあった、その名も「ラテン・アンサンブル」。テキサスという土地柄もあり、マリアッチを始めラテン音楽はとても盛んだったのだ。「ラテンの王様」とも呼ばれたティト・プエンテの音楽を主に演奏し、僕はその核となるティンバレスを担当させてもらえることになった。テキサスに来るまでティンバレスのティの字も聞いたことがなかった日本人が急にラテン音楽を演奏することになったのだ。そしていくつか基本的なパターンを習得し、校内外でコンサートをしたり、そのコンサートの中でティンバレス・ソロなんかもあったり、本当に刺激的な毎日だった。
ラテン・アンサンブルのコンサート
そして何よりも驚いたのが、僕と同い年ぐらいの学生達がプロ顔負けのジャズを演奏していたのだ。定期的にグリーンルームと呼ばれる中庭で上級者が演奏したり、学校のホールでコンサートがあったり、自分もいつかこういう風に演奏することができたらな、といつしかジャズにどんどんと憧れていったのであった。その影響から、昼休みや放課後を利用しベーシストやピアニストの友達と集まってジャム・セッションをやってみたり、自分もどんどんと即興で演奏する楽しさを覚えていった。演奏以外にもオススメのCDを教えてもらったり、少しずつジャズの魅力を発見していくことができた。その時に勧めてもらったのがハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』やソウライヴの『ターン・イット・アウト』だったりしたため、僕は次第にファンクのようなグルーヴのあるジャズが好きになっていった。また、同時期に同校を卒業したノラ・ジョーンズやロイ・ハーグローヴのことも知り、彼らの音楽も聴いていた。特にノラはまだ無名だったのだが、ダラスの皆は誰しも「彼女はこれからすごくなる」と口にしており、そしてその予想通り2003年にデビュー・アルバム『ノラ・ジョーンズ (原題:Come Away With Me)』で見事グラミー賞を受賞したのだった。
そうやって、才能のある芸術家の卵たちがたくさん周りにいる環境で過ごし、僕は常に刺激を受けていた。作曲家志望の天才たちが曲をどんどんその場で作り上げていく作業を側で見せてもらったり、ギタリストと早弾きの対決をしたり、ジャズ・ドラマーの同級生とスティックの握り方を語ったり。そして彼らは皆、卒業後に各地の有名音楽大学への進学を志していた。同級生の兄はArtsを卒業し、ジュリアード音楽院のジャズ科に在籍しているヴァイオリニストだった。彼とも仲良くなり、ジャズを色々と聴かせてくれた。その中に、僕の誕生日プレゼントとして贈ってくれたアルバムがあった。マイケル・ブレッカーの『ニアネス・オブ・ユー』だ。当時はブレッカーのことも知らなかったし、そのアルバムに参加しているパット・メセニーやチャーリー・ヘイデンの名前も当然知らなかった(ハービーはヘッド・ハンターズで知っていたが、演奏スタイルが全然違うため、同一人物だと気づかなかった)。そして一番衝撃的だったのは、3曲目「ナセント」でのジャック・ディジョネットのシンバル・ワーク。こんなに繊細で細かいシンバル・ワークなんて可能なのだろうか!?と、いつも聴きながらうっとりしていた。余談だが、この曲のサックスソロはブレッカー史上最高のものだと今でも思っている。
マイケル・ブレッカー
『ニアネス・オブ・ユー:ザ・バラード・ブック』
そんなジャックに今僕は少しでも近づけただろうか。いつも友達やホスト・ファミリーとの待ち合わせ場所になっていた、Artsの校門前にあったペガサスの銅像を思い出しながら、自分自身の胸に問いかけてみた。
【第十四章】―ペガサス (後編)―
ある日の朝、起きてリビングに行くと、ホスト・ファミリーが大騒ぎでニュースを観ていた。何やら飛行機が建物に突っ込んだみたいだ。状況がまだあまり把握できていないのか、ニュースキャスターも慌てていた。その後立て続けに合計4機の飛行機が爆発した。
2001年9月11日。
アメリカ同時多発テロの日の朝のことだった。
誰も何が起こったのか分からないまま、学校に向かう時間となった。その偶然と言うにはおかしすぎるこの事件の行く先が気になり、車でラジオ・ニュースを聴きながら学校に到着した。学校でももちろんみんな大騒ぎ。徐々に事態が明らかになるにつれ、周りは絶望感に苛まれていった。これはやはり偶然の事故なんかではなく、大規模なアメリカに対するテロだったのだ。国の緊急事態により学校も閉鎖され、早退を余儀なくされた。生徒たちも涙を流しながら「これがどういうことか分かるか? また戦争が始まるんだ!」と恐怖しかない世界と化していた。僕はと言えば、もちろんこの国がこれからどうなるかとても心配だったし、そもそもこの留学生活を続けられるのかも危うく感じられ、その後のニュースを追っていた。次の日からは学校も通常通り開校されたが、やはりしばらくの間は暗い空気に纏われていたように思う。今まで何ともなかった平穏な毎日を一瞬にして変える、そんな恐怖と絶望を与えたこのテロはその後世界的な大事件となり、そして今後の僕のアメリカ生活にも影響を及ぼした。単純に飛行機での移動も大変になったし、もちろん移民としてビザを取得することにも影響があった。差別的なこともたくさんあった。でも、そんなことで自分の道を諦めるのは馬鹿らしいので、僕は幾度となく戦いながら生活を続けた。
その後はそんなに暗い話ばかりではなかった。音楽漬けの毎日の中、私生活でも色々と変化があり、楽しい生活を送っていた。一番大きかったのが同じくArtsに通う彼女ができたことだった。彼女はダンス科に所属しており音楽科とはそんなに接点は無かったのだが、僕のホスト・ファミリーとも顔馴染みでよく顔を合わす機会があった。そんな彼女をアメリカの高校生活最大のイベント「プロム」に誘い一緒にダンスをしたこともとても良い想い出として残っている。休み時間に彼女と長文の手紙のやり取りをしたり、寝る前に電話で話したりしたのも、英語の上達に繋がったのかもしれない。授業中に手紙を書いているところを見つかり先生に注意されたりもしたが、それもまた一つの思い出だ。
ガールフレンドと
それ以外にも、友達とよく遊びに出かけたり一緒にジャズクラブに行ったり、また、楽器が揃っている友達の家でジャム・セッションをやったり、本当にかけがえのない時間を過ごしていた。たまに夜中に友達の家に集まり、親が旅行で留守なことをいいことにパーティーを開催し、内緒でアルコールを飲んだりタバコを吸ったり、その時にしか味わえない青春も経験できた。みんな二日酔いで目を覚まし、車でダイナーへと向かい眩しい日差しの中朝食を食べる。映画でよく見るような光景がそこにあり、その怠惰なゆったりと流れる空気が気持ちよかった。
そうやって音楽と青春をたっぷり味わいながら留学生活も無事に終わり、僕は1年ぶりに日本へと帰った。英語の上達のため、1年間日本とのやり取りはほぼなかったので、それだけ頑張った自分を誇らしく思い帰国した。きっと僕の両親も同じぐらい誇らしげに思ってくれたのだろうと思う。しばらくして、日本の高校の卒業式があったのだが、僕が帰国したのは皆が既に卒業した後の夏だったため、僕一人だけの卒業式になってしまった。それでも悪友のYは髪の毛を金髪に染め、スーツをビシッと決めてわざわざ参加し、僕の帰りを祝ってくれた。
一人だけの卒業式
そして僕はまたすぐに飛行機に乗りテキサスへと戻った。これからが本当の挑戦だ。
【第十五章】―Solar Way―
18歳の夏。
少し遅めの卒業式を終えた僕は、約1か月ほどの短い滞在を終えテキサスに戻った。昨年と同じダラスの空港に降り立ったものの、向かう先はそこから少し北にあるデントンという田舎町だった。一体そんなところに何の用があるのかというと、ノーステキサス大学(以下UNT)というアメリカ屈指のジャズ科のある総合大学がそこに存在していたのだ。「ジャズを勉強するならUNTでしょ、あのノラ・ジョーンズも行ってたしね」と、ダラスのジャズ好きの人たちは皆そう言った。それに習い僕もUNTで勉強してみようと思ったのだ。ただ、総合大学だけあり、TOEFLと呼ばれる英語力のテストの必要スコアがかなり高く、ちゃんと入学するのも難しい。そして入学するのも大変だが、何よりジャズ科に合格するのもまた至難の業であった。まだまだ英語力も足りずジャズの経験も皆無の僕は、まずUNTに付属しているESLのコースを取ることにしたのであった。
デントンに到着し、一時帰国前に既に契約を済ませておいた部屋に入居した。この部屋を探すのに実はとても苦労したのであった。新聞に載っている賃貸広告の中からいくつも電話を掛けてみたのだが、たくさん質問しているうちに相手が面倒くさくなり一方的に切られることがほとんど。部屋を見つけるどころか、欲しい情報を手に入れることさえも困難に感じた。特にホスト・ファミリーと仲が良くなかったので、彼らの助けを借りることなくめげずに自分でとにかく電話を掛けまくった。そんな中、アパートでは無く一軒家の1階を借家にした個人の広告を見つけた。ジムという優しそうな声をしたお爺さんが電話に出て、拙い僕の英語の話を真摯に聞いてくれた。「ルームメイトが3人いる家で、一人は新聞社に勤めてる日本人の写真家だよ。安心して住めると思う」と説明してくれ、部屋を直接見る時間は無かったのだが、時間も迫っていたしその場で契約することにしたのだ。その後、日本人に頼ることが「何よりもかっこ悪い」と尖りまくっていた僕は、ルームメイトの方とほとんど話すことなく過ごした。その代わりと言ってはなんだが、大家のジムにはめちゃめちゃお世話になり、免許証を取得する時や、中古車を購入するときまで、本当に何度も何度も手を差し伸べてくれ、大家という存在を遥かに超えていた。
大家のジムと
中古車を買う前は、全部自転車移動だった。当時、テキサスは公共交通機関が少なく(ダラスは公共交通機関が無い主要都市の中で一番大きな都市とされていたほど)、車がないとほぼ生活できないと言われており、またそのテキサスの中でもド田舎に住んでいた僕は移動手段に相当苦労した。毎日自転車で坂を登り学校まで行き、汗だくで授業を受け、雨が降ればびしょ濡れになり、片道30分近く掛かるスーパーに行くが荷物を持って走れず転んだり、今思い出してもとても辛かった記憶しか無い。でも元々英語が好きだったからESLの授業は好きだったし、論文を書く楽しさをそこで覚え、試験などで即興で書かなければいけない論文で満点を取ったり、勉強に関しては充実していたし、文法もそこでほぼ完璧になった。それに、移動は大変だったけど、広大な緑と青空に囲まれたこの田舎町はとても気持ちよく気に入っていた。住んでいたSolar Wayを自転車で駆け抜ける爽快感はニュージーランドにいた時と同じ感覚だった。あの光景は今でも簡単に思い出せる。ジムとの連絡手段も無くなってしまったが、今も元気で過ごしているだろうか。彼の優しい声と眼が記憶の中で蘇る。
そうやってUNTに毎日通い、メキメキ英語力を上げていった。でも僕の求めていたものはやっぱり音楽だった。ドラムを演奏する場所は無かったけど、音楽科の練習室に忍び込み夜な夜なピアノを弾いて、少しでも音楽に触れようとしていた。一度UNTの教授に「ドラムを教えてほしい」とメールをしたりしたが、やはり「教えてほしければちゃんと入学してからじゃないと無理だ」と言われあえなく諦めるしかなかった。家に帰っても練習パッドを使うと音が大きいしルームメイトにも迷惑が掛かるから練習もできず、結局テレビで映画やドラマを観て英語の勉強をしていた。
そしてデントンに移りしばらく経った時、Arts時代から付き合っていた彼女と別れることになった。一つ年下でまだダラスでArtsに通う彼女と僕の住んでいるデントン、車も無い当時の感覚では十分遠距離で、それもありこれ以上関係を続けることが難しくなったのだ。その時ばっかりは、日本人のルームメイトに話しかけ、ビールとタバコをもらい、恋愛相談に乗ってもらった。
彼女との別れから毎日の気持ちがとても暗くなった。
そして、ここから負の連鎖がどんどんと始まっていったのであった。
【第十六章】―墜落―
これから始まる話は、本当は思い出したくもない僕の歴史上最悪の一年の出来事だ。
彼女と別れた18歳の秋、僕は引き続きUNTのESLコースで勉強に励んだ。英語を習得したりエッセイを書いたりするのはとても楽しかった反面、語学学校だけに日本人が多いことがとても苦痛だった。どこかで「俺は既に1年間ダラスで高校生活を送ったからお前達とは違う」という驕りがあったのだろう。極力日本人は避け、話しかけられても素っ気なく英語で返していた。そうやって、日本人と毎日顔を合わせることがどんどん億劫になっていった。
時を同じくして、ジムの助けもあり運転免許を取得し中古車を手に入れた。現地の人とも交流を持ちたかった僕は、事あるごとにArts時代の友達に電話をかけたりしていた。「車があるからこれからはダラスにも遊びに行ける」と話し、度々高速道路を使い小一時間かけてダラスへと向かった。時には友達を呼びデントンで遊んだりも。
そうしているうちに、「音楽をやりたくてもできず、周りにいるのは日本人を多く含む留学生ばかり」という現状にもう我慢できなくなり、遂には学校を辞めることを決意した。その年の年末にはもう全ての手続きを済ませ、たった4か月ほどでデントンに別れを告げた。それからは、ダラスのコミュニティカレッジと呼ばれる2年制の大学で音楽を勉強しようと思い住居も移した。コミュニティカレッジでは様々な分野を基礎から学ぶことができ、4年制の総合大学で専門的な勉強をする前の準備段階として使われることも多い。音楽の知識も語学力もまだまだ備わっていない自分が始めるにはちょうど良いのではと感じた。いくつかあるダラスのコミュニティカレッジの中から、評判の良さをよく聞く北ダラスに位置するブルックヘブン・カレッジを選んだ。がしかし、大学にはセメスター毎に履修できる授業が決まっており、1月という学年度の後半から入学しようとした自分はうまく授業を組めなかったのだ。仕方がないので、次の学年度が始まる9月まで再びそこでESLのコースを選択することにした。ただ幸いなことに、ダラスのコミュニティカレッジには日本人が少なく、僕のクラスにも日本人は皆無で居心地もよかった。
Arts時代の友達とも物理的な距離も近くなったが、僕の傷ついた心はまだまだ癒されなかった。いつも会う仲間は自分を含め4人(通称「807」)。そのいずれもが心に何か悩みを抱え、本来は21歳まで禁止とされているお酒をどうにか手に入れ、その弱った心を慰めるかの様に酔っ払い堕落した生活を送っていた。どこにもやりきれない怒りや苦しみ。自暴自棄になり情緒も不安定、どんどんやさぐれていき心は癒されるどころか乱れまくる。少しでも気に入らないことがあると誰彼構わず当たり散らし、喧嘩も後を絶たなかった。807のメンバーは一つ年下だったのでArtsまで毎日車で迎えに行っていたのだが、心が腐った連中故に大人を敵に回し、学校に常駐していた警官とはいつも口論をし険悪な関係がずっと続いていた。ある日の夕方、その警官とまた喧嘩になり807の一人が間違いを起こしてしまった。詳しくは書けないが、最終的にそいつは逮捕されてしまい、強制退学の後に更生施設へと入れられた。
数年後の807
そんな事件があったのにも関わらず、僕らは毎日集まった。オーククリフというダラスのゲットーエリアと僕の住む北ダラスのアパートを拠点に、荒れた生活は続いた。髪型も奇抜になり、車にはどデカいスピーカーとサブ・ウーファーを積んで2パック、スリー・6・マフィア、SPM(サウス・パーク・メキシカン)などを爆音でかけ、外からは中が見えない様な真っ黒なスモークを張り、一歩間違えればただの半グレ野郎だった。毎週日曜日の夜、ご自慢の車やサウンドシステムを見せびらかしながら、何十台もの車が道路を行き交う「クルーズナイト」と呼ばれるものがオーククリフでは行われていた。参加する殆どがメキシコ系アメリカ人の中、唯一アジア人の僕はボロボロの車にサウンドシステムを積み、当時テキサスで流行っていた「Chopped & Screwed」というヒップホップなどの曲をかなり遅くして再生する音楽を流し、807の連中と共に爆音で車を揺らしながらゆっくりとクルーズを楽しんだ。そんな感じだからオーククリフ界隈でも「あのアジア人は何者だ」と話題になり、普段誰もあまり歓迎されないその街でも知り合いが少しずつ増えていった。
オーククリフでの再会
かといって、ESLの授業をサボっていたわけではなく、毎日通い成績もよく学校では何も問題はなかった。同じクラスにいた韓国人のおばさんが、自分の息子と同い年ぐらいの僕を気にかけてくれ、たまにご飯を作って持ってきてくれたりもした。そしてESLのコースも無事終え、5月になり夏休みに入った。
忘れもしない2003年、夏休みを使った一時帰国中。じめじめと暑くなりつつある大阪で家族と映画を観ていた時のこと。不意打ちのように、一本の電話がかかってきた。
【第十七章】―事件―
「進也、英語で話してるけどアメリカの友達からじゃない?」
映画を一時停止し電話を出た母が僕に声を掛けた。どうせまた酔っ払った807の連中が遊びで電話をかけてきたのだろう、そう思い僕は電話を代わった。だがしかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは全く聞き覚えのない男の声だった。
「ダラス警察の者だ、お前がShinya Fukumoriか?」
聞き間違いだと思い、何度もその言葉の意味を理解しようと聞き返した。普段から人に電話の会話を聞かれたくない僕は、すぐさまリビングを飛び出し上の階へと向かい、落ち着いて話を聞こうとする。しかし容赦無く次の言葉が発せられた。
「お前の家で違法薬物を見つけた。直ちにこの部屋から退去しろ」
またもや訳の分からないことを言っている。まだ信じられない僕は、これは「警察に扮した友達が悪ふざけでかけた電話」と思い込む様にした、いや、そう願うしかなかった。その結果、繰り返し繰り返し電話の主に「お前は誰だ? 誰がふざけてるんだ?」と問いかけ、いいかげん呆れた相手は「今この部屋にお前の友達がいるから代ってやる」と言い放った。
「ごめん…」
と一言だけ声が聞こえてきた。807の一人、Dreの声だった。そして、その一言で今起きていることが全て現実なのだとようやく理解できた。「本当なんだな?」「ああ…」と短い会話があり、何が起こったのか説明してもらった。
帰国する前夜。いつものように自宅で807のみんなで集まっていた。その時に僕らと一緒にいた奴がもう一人だけいたのだ。そいつは、あるトラブルから家を出ており、警察に捜索願を出されていた。その話は前から聞いていたのだが、逃げる場所が遂になくなってしまい、僕の自宅にしばらく泊めてもらえないかということでその日から来ていたのだ。ちょうど日本にしばらく帰るし、全然使ってくれていい、と承諾ししばらく自宅に泊めることになった。そして次の日僕は日本に帰るのだが、しばらくしてあっさりとその友達は警察に居場所を突き止められ、僕の自宅に乗り込まれてしまった。そして警察は部屋に入るなり友達が所持していた違法薬物を見つけ、更にはうちにあったヌンチャクも発見し、これを大事だと認識した警察は日本に電話をかけてきたのだ。「俺はその薬物とは関係ない」と説明しても信じてもらえず、警察は「これはみんなで共有していたものだ」と決めつけ、再び退去命令を伝えた。日本にいるから退去できないことを伝えると、アメリカに戻ったらすぐに退去しろと言われた。そして何よりヌンチャクが凶器であり違法だということにびっくりした。「今回はみんなで共有していたということで、誰かを逮捕したりすることはない。強制退去で大目に見といてやる」と最後に言われた。
電話を切り、徐々に実感が湧いてくる。なんて大変なことになってしまったんだ。そしてどうやって家族に説明をすればいいのか。階段の上で僕はうなだれ、しばらく呆然としていた。長時間話していたせいか、「もう映画の続き観るよ~」と母が声を掛けてきたので、すぐに母を上の階に呼び事の経緯を詳しく説明した。そしてリビングに戻り、重たい空気の中、家族会議が始まった。
自分に非が無いとはいえ、普段からの行いの悪さが引き起こした今回の事件。その年の秋から新たにコミュニティカレッジで音楽を勉強する予定だったのに、今はもうそれどころではない。僕はアメリカに戻っても住むべき家が無いのだ。
起こってしまったことは仕方がない、ただ今までのことを反省し次に繋げていきなさい、と親は言葉をかけてくれた。アメリカに行ってまでもまだまだ心配をかけてしまう自分が情けなかった。
「これから心を入れ替えなければ。何のためにアメリカまで来たんだ」
そう自分自身に言い聞かせ、僕は更生を心に誓った。今回の事件で、僕は顔面をビンタされたかのように目が覚めた。強く生きよう、と。
夏は続き、またテキサスに戻る日がやってきた。まだまだここからだ、帰っても住む場所が無いし大学の準備もある! 一度落ちたら這い上がれ! さあ、どうやってこのピンチを切り抜ける、福盛進也!
数か月後の僕
【第十八章】―更生―
あの事件が終わり僕はテキサスに戻った。まだ暑い夏は続いており、テキサス特有のカラッとした猛暑を空港に降り立った瞬間感じた。
住む場所を失った僕は、取り敢えず807のメンバーの一人、Victorの実家に転がり込んだ。Victorの実家はオーククリフにあり、以前からしょっちゅう出入りしており家族とも交流があったので気が楽だった。とはいえここはオーククリフ、犯罪が毎日発生しているダラスで最も危険な地域。ほとんどの家の玄関には鉄格子があり、自分の身を守っている。そしてVictorの実家だってもちろんそうだ。ある夜のこと、仲間と玄関先で談笑していたら車が通りかかり、こちらに向かって発砲してきた。威嚇の為の発砲だったため、幸い誰一人怪我は無かったが、こういう恐ろしい場所に自分は現在身を置いているのだ、と再認識した。
それからは、一刻も早くこの状況から脱出しようと思い、ブルックヘブン・カレッジがある北ダラスで再びアパートを探し始めた。一人暮らしだとなかなかコストも掛かるし、ルームメイトと住むのも有りだな、と思い学校の掲示板に貼られている「ルームメイト募集」から自分に合いそうなものを選んで連絡してみた。しかし、新学期が始まる直前ということもあり、そう簡単には見つからない。音楽科に入る手続きを進めながら、毎日学校に足を運ぶも何日経っても住む場所が決まらない、とても困難な状況だった。だがそこで思いついた。もしかしたら、自分と同じように部屋を探しているけど見つかっていない人がたくさんいるのではないか、と。だったら話は簡単だ。ベッドルームが二つある部屋を探し、自分が借主となり逆にルームメイトを募集してみればいい。そして僕はブルックヘブン・カレッジ周辺を車で周り、良さげなアパートの事務所を訪ねては空き状況と家賃を確認した。テキサスでは、団地の様な集合住宅に必ず運営事務所があり、不動産会社を通さずに個人で直接交渉できるのであった。なので、比較的簡単に情報を集めることができたし、結果すぐに住む場所は見つかった。後は掲示板にルームメイトを募集していることを告知すればいいだけであり、やはり自分と同じ状況の人がたくさんいたようで、応募の電話がいくつもかかってきた。その中から韓国人の少し年上の人がルームメイトとなり、無事に全ての問題が解決した。
オーククリフでひと月ほどお世話になり、僕は新しいアパートへと引っ越した。やっと新たな生活を始められる。今まで約1年もの間ドラムを叩かず音楽も一切しなかったけれども、ここから先はしっかりと音楽の勉強に力を入れようと心を入れ替えた。大学でどんなことを学べるか、そしてどんな人たちと出逢えるのか。そう思うととてもワクワクし、一刻も早く学校に行きたかった。
選択する授業も全て決まり、いよいよこれから新しい学年が始まる。2003年8月末、初日だし遅刻しないようにと思い、いつもより早く起きて準備を終え家を出た。空は少し曇り空、もう少ししたら雨が降りそうな、そんな天候だった。そして駐車場に行き、自分の車に辿り着いた瞬間、僕は言葉を失った。なんと、車上荒らしにあっていたのだ! 窓ガラスが割られ、車の中のステレオや小銭が盗まれていた。オーククリフではなく、比較的治安の良い北ダラスでもこういった事件は多発していた。つまり車上荒らしは日常茶飯事だったのだ。僕は仕方なく警察に電話をし、現場検証をしてもらった。そうしているうちに時間は過ぎ、最初の授業も既に始まっていた。ガラスの破片を掃除し、何も無い窓にはゴミ袋をガムテープで貼り付け、やっとのことで学校に到着。そして急いで教室に入り、事の顛末を先生に説明した。幸い優しい先生で、何も問題無く受け入れてくれて、その後はスムーズに初日が終わった。
困難続きで本当に大変な時期だったが、色々と人生勉強にもなったし得たものもたくさんあった。そして、今後一切悪いこととは関わらないでいようと強く心に決めた。やっとここから本格的に音楽の勉強をスタートできる。ジャズ・ドラマーとしての第一歩をやっと踏み出せたのであった。
ブルックヘブン・カレッジ時代
【第十九章】―広がる世界―
ブルックヘブン・カレッジでの授業が始まり、晴れて大学生としての生活を楽しんでいた。Artsで少しは学んでいたものの、初めて専門的に音楽の授業を受けることができ、毎日学校へ通うことがとても嬉しかった。
音楽理論の授業ではクラシックの解釈を基に分析し、今まで知らなかった世界が大きく広がった。音の重なり方や対位法。クラシックでよく使われるハーモニーの進行など、どれも新鮮でずっと聴いてきたベートーヴェンを始めとする音楽が少し近くに感じられた。
そしてイヤー・トレーニング。その名の通り、耳を鍛えるコース。元々(ほぼ)絶対音感がある僕は、単音やメロディを正確に聞き取ることができたので苦労はしなかったが、コード的なハーモニーになると僕は得意ではなかった。結局それは現在でも続いていて、ハーモニーというものをあまり把握できていない気がする。というのも、音の響きは前後によって大きく変化するものだと思っていて、個人的にはそのコードの決められた役割よりも、状況により変化する空気感のほうに興味があるからなのだと思う。
ある日、イヤー・トレーニングの先生が「バイオリニストやサックス奏者はメロディを拾うのが得意で、ピアニストやギタリストなんかはコードを聞き取るのが上手な傾向がある」と言っていた。それを聞いて、音楽をやる上で様々な楽器に触れることは大切だなと感じ、バイオリン、ピアノ、ギターと色々と手を付けてきたことにも意味があったのだな、とこれまでの自分の音楽歴を振り返った。
その二つに加え、必修のピアノ、ドラム・レッスン、アンサンブルなど、まさに音楽科といった授業ばかりが毎日行われていた。ジャズ・ドラムのことをまだ何も知らない僕は、ここで一から教わった。基礎的なリズムやルディメンツ、初見の演奏方法、そしてジャズでよく使われるグルーヴなど、ドラムの世界は奥深いものなのだと感じた。またそれだけでなく、どんなスティックを使えば良いかなど初歩的なアドバイスもたくさんくれた。その全てを教えてくれたのがKeith Umbachという素晴らしい先生だった。小さい学校ということもあり、彼とはしょっちゅう顔を合わし、次第に師弟関係というよりお互い親子に近い存在になっていった。Keithはいつも僕の体調や精神状態も心配してくれ、同時に若くて生意気な自分を叱ってくれたり、本当に心から信頼できる人だった。音楽的なことだけでなく、人生の相談にも乗ってくれたりする時もあったり。僕の成長を誰よりも喜んでくれ、その為には時間を惜しまない素晴らしい先生、彼に巡り合えたことは宝物だし、いつまでも僕は感謝している。
Keith Umbach
Keithだけでなく、ピアノを教えていたOctavioというメキシコ出身の先生にも大変お世話になった。教授ということもあり、学校内の音楽イベントを仕切ることが多く、僕はボランティアで彼をよく手伝っていた。そうしているうちに仲良くなり、プライベートでも一緒にご飯に行ったりお酒を飲みに行ったり、たくさんの時間を共有した。彼もKeithと同様に僕のことをいつも気にかけてくれ、何か悩み事があったら相談したりしていた。その関係はアメリカにいる間ずっと続き、自分の居場所が変わっても会いに行ったりもした。
Octavioとパーティーで
先生陣も素晴らしい人たちばっかりだったが、周りの生徒にも随分と恵まれた。アメリカの大学では日本とは違い、様々な人種や年齢層の人が学びに来ていることが多い。学びたい人に対しては間口が広い国なのだ。ブルックヘブンももちろんそうで、同じドラム、パーカッションを学ぶ生徒にはAndieという40歳過ぎの女性がいた。昔は映画業界で働いていた異色の経歴の持ち主なのだが、そんな人でも新しく何かを学べることはアメリカでは普通だった。彼女も僕にとって大切な存在で、なにかとよく面倒を見てくれた。特にOctavioと僕らは仲が良く、三人で何かすることが多かった。Andieも僕と同じ時期に入学したので、彼女とはいつも譜面の読み方や演奏方法などを考えたり、同じKeith門下生として一緒に切磋琢磨し日々共に過ごした。
その他にもここには書き切れないほどの想い出を一緒に作れた人がたくさんおり、ブルックヘブンを選んで良かったなと心から思った。そして、こういった素晴らしい大人たちに囲まれながら、僕は昔の自分から立ち直ることができ、大きく大きく成長させてもらった。僕の親も僕自身もよく口にすることだが、本当にテキサスにはたくさん育ててもらった。
テキサスを離れてもう10年以上も経つ。またいつか再びテキサスを訪れ、現在の成長した僕の姿をみんなに見てほしいと願う。そしてまた昔のように一緒にお酒でも飲みに行けたらいいな。
【第二十章】―Straight, No Chaser―
学校の先生や他の学生との距離も縮まり、音楽漬けの日々を楽しく過ごしていた。音楽理論やイヤー・トレーニングを勉強しながら、どんどんと深まる知識にも嬉しさを覚えた。約60ページ分の課題を一日で終わらせたり、そんなことが全く苦じゃなかった。そしてプライベート・レッスンで学んだものを全て出し、アンサンブルで演奏できる機会を僕は楽しんだ。
当時のブルックヘブン・カレッジ
毎週2度行われる、その名もDay Time Lab Band(以下Lab Band)という授業。管楽器やリズム・セクション、10名を超える様々な楽器の生徒がこの授業を受けており、基本的にジャズの曲を演奏するラージ・アンサンブル的な立ち位置だった。ビッグ・バンドほどの細かい楽譜ではなく、ジャズ・スタンダードのアレンジを演奏していた。もちろん同じ楽器の人もいるし、ドラムだけでも僕を含めて3人もいたので、曲ごとに誰が演奏するかを決めていた。フランク・マントゥースがアレンジした楽譜が多く、新しい曲が出てくる度にCD屋へ行きその曲が入っているものを片っ端から探した。そうやって僕はこの授業のおかげでたくさんのジャズ・スタンダードを覚えることができた。
また、ドラム・ソロというものを初めてやったのもこのLab Bandの授業中だった。32小節からなる、今思えばとても簡単な曲だったと思うが、1コーラス丸ごとソロという当時の僕には難題だった。ただ緊張しながらもとても興奮したことを覚えている。ドラマー3人ともソロを取らされたが、僕は自分が一番うまくできたと思ったし、周りの生徒もそう言ってくれ誇らしかった。その他にも、マリンバやヴィブラフォンを演奏したり、できることは何でもやった。
Lab Band内で知り合った新しい友達と空き時間にセッションをしてみたり、習ったばっかりの理論の解釈で曲を書いてみたり、自分自身がしっかり学んだものを学校内で終わらせないように努めた。というと聞こえはいいが、ただ単に音楽がとても楽しかっただけなのだ。人と一緒に音を出すこと、自分で書いたものが形になること、その幸せを噛みしめながら少しでも良い音楽家になりたいと願った。
当時の音楽科の掲示板
8月はすぐ終わり、9月、10月もあっという間に過ぎ去っていった。その間にルームメイトは諸事情でいなくなり、再び完全な一人暮らしの生活に戻っていた。その分家賃を余分に払わなければなかったが、一人の時間が増えたことで安心して音楽に打ち込むことができた。とは言え、平日だろうが週末だろうが関係なく毎日学校に行き、ピアノの練習をしたりドラムの基礎を覚えたりしていたので、帰宅するのはいつも夜遅くになっていた。学校が閉鎖するギリギリまでいたこともしばしば、警備員に門を開けてもらったりも。だから家では持ち帰りのご飯を食べて寝るだけの生活が多かった。でもそれも、僕と一緒に夜遅くまで付き合い勉強してくれる仲間や先生がいたからこそ。貴重な時間をたくさん過ごせたと思う。
11月に入り秋の匂いがしてきた。いくらテキサスとはいえ秋も冬も寒くなってくるものなのだ。そんなどこか寂しげなテキサスの秋の匂いを感じながらチェット・ベイカーを聴くのが好きだった。11月の終わりにはThanksgiving(感謝祭)と言われる大行事があり、4日ほどの連休が待っている。そしてその連休直前に、僕らのLab Bandが学校のコンサート・ホールで演奏することが決まっていた。初のジャズ・コンサートだ。がしかし、ドラマーが3人いるので、誰がどの曲を演奏するか振り分けなくてはいけない。それはLab Bandの担当の先生Royが決めるのだが、Royはクラシック出身であまりジャズに詳しくなく判断基準も曖昧だった。僕は3曲もらったのだが、プログラムの中で一番テンポの早い曲「Straight, No Chaser」を他のドラマーに任された。それに対してどうしても納得がいかずにめちゃめちゃ腹を立ててしまった。僕はこのバンドで一番のドラマーで誰よりもうまくスウィングできる、どうみてもフェアじゃない、そう自負していた。授業が終わり、「どういうつもりだ、おかしいだろう! 絶対俺の方がうまく叩けるし、あのドラマーには荷が重すぎる。その曲を俺にくれ!」と直接オフィスまで直訴しにいった。Royも僕がそこまでの気持ちでその曲を演奏していたとは知らず、結局根気負けし、僕にその曲を与えてくれた。最終的に僕の演奏する曲は、「In Walked Bud」「Straight, No Chaser」「Night And Day」「So Nice」の4曲に決まり、マリンバで「Pent Up House」、ヴィブラフォンで「Stolen Moments」も演奏することになった。
そして2003年11月22日、Lab Bandが演奏する日、僕の初めてのジャズ・コンサートの日がやってきたのだ。
本番前
第二十一章~第二十五章へ続く
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