ゆっくり、だけど、確実に。 〜福盛進也 音楽半生記〜 (第21回~25回)
【第二十一章】―想い出の七面鳥―
白いシャツにネクタイを締め、黒いスーツに黒い革靴。
初めてのジャズ・コンサート。
興奮気味の僕は、集合時間より少し早めに自宅を出た。学校に到着し教室からコンサート・ホールへとドラムセット、ヴィブラフォン、そしてマリンバを運ぶ。ひっそりとした大きなホール、そのステージ上でセッティングを始める。ぞろぞろと生徒も集まり、Royがサウンドチェックの指示をする。が、誰もコンサートに慣れておらず、ただ単にサウンドチェックという名のリハーサルだった。Royも普段はクラシック奏者なので少々あたふたしていたのかもしれない。立ち位置を決め、ある程度みんなが心地よい空間になり、待合室でもある教室に僕らは戻った。談笑する者もいれば最後の練習をする者もいた。そうやってそれぞれ時間を潰し、いよいよ本番の時間がやってきた。
最初に「So Nice」をテンポよく問題無く演奏した。そしてその後にヴィブラフォンとマリンバで出番があった。まずはヴィブラフォンで「Stolen Moments」。スローなマイナー・ブルースが進行する中、僕は管楽器と一緒にメロディを弾いた。もともと本番に強い僕は堂々とメロディを弾き終え、みんながソロを取った後に僕の番が回ってきた。ジャズ理論をあまり理解していないながらも、ブルース・スケールをなんとか駆使してソロを取った。その結果、今までリハーサルや練習していた時よりも確実に良いソロを演奏することができた。そのまま勢いに乗り、マリンバで「Pent Up House」を演奏し、遂にドラムで残りの3曲を叩いた。大勢の人の前でスウィングする心地よさ、そしてお互いがソロを取りながら重なり合うインタープレイの興奮、それはもはや一種の麻薬のような、自分を極限までハイにする経験だった。自分から志願した「Straight, No Chaser」も単純にめちゃくちゃ楽しかったし、演奏する喜びは感動になり、「やはり僕が求めていたのはこれだったのだ」と改めて気付かされた。そして演奏後は仲の良いメンバーたちで、学校近くの行きつけのバーで楽しく打ち上げた。
コンサート。Michaelと一緒に
次の日、僕は同じLab Bandでベースを担当しているMichaelの家に招待された。普段から仲良くしていて、「Thanksgivingのお祝いで家族みんなでご飯食べるから、シンヤも来いよ」と家族が近くにいない僕を誘ってくれたのだ。Michaelの家に着くと、綺麗に装飾されたテーブルの上にご馳走がたくさん並んでいた。Thanksgivingでは主に七面鳥を食べるのだが、その七面鳥の丸焼きや美味しそうな一品料理が僕を待っていたのだ。家族や親戚一同が合計10人ぐらい集まり、みんな僕を温かく迎え入れてくれた。料理が一切できず、ファーストフードばかり食べ、貧しい食事をしていた僕はその光景に感動した。こんなにも豪華な料理を見たのはアメリカに来て初めてのことだったし、何よりも暖かい家庭に触れられたことが嬉しかった。みんなで七面鳥を食べワインを飲み、そこから僕の生い立ちを話したり、Michaelのお父さんとはレコードを聴きながらジャズの話で盛り上がり、本当に有意義な時間を過ごさせてもらった。
入学してから初めてのジャズ・コンサートまで頑張った自分へのご褒美だったのかな、とその素敵な一日は今でも素晴らしい想い出として心に残っている。
その後もMichaelとはお互いの家を行き来し、面白い音楽をたくさん教えてもらったりしていた。だがそれから一年ぐらい経った後、彼は音楽を諦め違う道へと進んでいった。大学も違うところへと編入し、まだSNSがそんなに普及していない時代だったこともあり、それから彼との連絡は徐々に少なくなり遂には途絶えてしまった。
これを書いている現在、あれから16年後のThanksgivingだ。Michaelもどこかでまた同じように家族で集まり七面鳥を食べているのかな。想像するとあの頃の懐かしい笑顔が蘇る。
【第二十二章】―The Foo Birds―
僕はビッグバンドが大嫌いだった。
ブルックヘブン・カレッジには昼だけでなく、Night Time Lab Bandというものがあった。毎週水曜日の夜に集まり演奏をする授業。人数は14、5人からなり、いわゆるビッグバンドというものに生で触れたのはこの授業で、大学生活2年目から僕はそのNight Time Lab Bandに参加するようになった。そして、その授業の先生が僕のドラムを指導してくれていたKeithだったのだ。
そのビッグバンドは学生だけでなく、今までずっと音楽をやってきた人たちが多く、レベルも昼のバンドに比べると圧倒的に高かった。だから自分がこのバンドで演奏するのはもっともっと先でも良いのでは、と思ったほどだった。最初の方は、もともといたドラマーでベテランのFrankが演奏するのを後ろからじっと見つめ、たくさん聴きながら勉強をさせてもらった。
僕は譜面が読めたし身体で覚えるのは得意だったのだけれども、初見ですぐに全てを把握して演奏する能力は全くなかった。ビッグバンドといえば、初見で何曲も演奏を進めていくことが醍醐味みたいなところがあるのだが、自分にとってそれは恐怖でしかなかった。もっと専門的なことを言えば、ビッグバンドにおけるドラマーの立ち位置はとても重要で、「アンサンブルフィギュア」「バンドフィギュア」「ヒッツ」などと呼ばれる、日本語でいうところの「キメ」をしっかりとセットアップする役割がある。そのセットアップを失敗するとバンド全体がむちゃくちゃに崩れる恐れがあり、乗車客全員の運命を握ったバスの運転手のようだった。もちろん、初心者の僕にはそんなテクニックが無く、決め事が多いビッグバンドが次第に苦手になっていった。
そしてもう一つ、ビッグバンドが苦手な理由があった。通常、ビッグバンドではリズムセクションは右側(観客から見て左側)に配置される。ドラマーはホーン・セクションの右隣、ということは、左耳が聴こえない僕には楽譜を初見で追いながら全てを耳に入れるのがとても難しかった。
そうやって、ビッグバンドに対する興味を失い、課題曲や予習などもほとんど怠るようになってしまった。やっぱり自分にはコンボのようなスモール・アンサンブルが向いているんじゃないか、とずっと思っていた。その頃には、音楽科の上級者が入れるVocal Jazz Ensembleにも参加しドラムを叩いていて、そっちのほうが断然楽しかった。
その後もずっとそういう感じで続けていたのだが、やはりその授業もセメスターの終わりにコンサートがあったのだ。初心者の僕は、一曲だけ任された。カウント・ベイシー楽団のアルバム『The Atomic Mr. Basie』の中にも入っている「Flight of the Foo Birds」という曲だ。軽快なスイングの曲で、最後は大きくグルーブする場面もある。簡単な曲ながらも、最後の方にたくさんの「キメ」があり、僕はその木目をうまくセットアップできるようになるまでとても苦労した。
本番の日、ドラムをセッティングしにステージに向かうと、Frankが既にドラムの調整を行なっていた。僕はそれを見ながら、空いているピアノの席に座り、適当に「枯葉」を弾いた。するとFrankはそれに合わせ少し一緒に遊んでくれた。ニコッと笑い僕には近づき、「君はタイムフィールがすごくいい。とてもいいセンスを持っているからそのまま進めばいい」と声を掛けてくれた。初めてのビッグバンドで緊張していた僕は、その言葉がとても心に響き、全然ダメだったビッグバンドでも自信が持てるようになった。本番でもその自信が続き、「Flight Of The Foo Birds」も粗いけど良い演奏ができた。
ビッグバンドのコンサート
ずっと嫌いだったビッグバンド。その後もずっと苦手意識はあったのだが、徐々に馴染んでいけるようになったと思う。二度とビッグバンドを演奏したくないと思ったこともあったのだが、(これから先も含め)僕のアメリカ生活で大部分を占めていたのはビッグバンドであり、ビッグバンドの中で学んだもの以上のことは他に何もなかったとはっきり言えるだろう。今では初見は大の得意であり、最終学歴のバークリー音大でも初見は最高レベルの評価をもらっていた。
そしてただ一つ言えるのが、どんなに苦手なものでも自分が自信を持って臨みさえすれば、克服なんて容易いものなのだ。そうビッグバンドが教えてくれた。
【第二十三章】―Dunn Brothers―
徐々にビッグバンドの演奏にも慣れ始め、スモールコンボやヴォーカル・ジャズのアンサンブルではスタンダード曲をたくさん学び、レパートリーが増えてきた。即興音楽という中で、どうやって音で会話し作り上げていくか、曖昧だったことがどんどんとハッキリとしてくる。時間を見つけては、学校で他の生徒とセッションをしてみたり、仲の良いベーシストとグルーブの研究をしたり、日に日にジャズを演奏する楽しさが増していった。そして学校でも自分の演奏力が評価され、2004年の秋セメスターからの1年間9教科分の学費が免除されるJazz Scholarshipという賞をもらったりもした。
その頃、僕よりも何年か先輩だったギタリストのJason、ベーシストのYoung、ドラマーのDarioの3人が学校からすぐ近くにあるDunn Brothers Coffeeというカフェで毎週月曜日に演奏しているということを教えてもらった。その3人は僕たちよりも一つ前の代のヴォーカル・ジャズ・アンサンブルのリズム・セクションで、いつも一緒に演奏をしているのを観てとてもかっこよく思えたし憧れていた。たまにそのアンサンブルにコンガで参加し、NashvilleやNew Orleansなどのジャズ・フェスティヴァルに一緒に参加したのも良い思い出だ。学生ということで貧乏だったけど、チップ制で、生でジャズの演奏を間近で観られるというのはとても有難いことで、それから毎週そこへ顔を出しに行くようになった。知っているスタンダードが流れると頭の中でコード進行を追い、ドラム・ソロになると拍を数えどんなアプローチをしているかじっくり観させてもらった。何度か顔を出しているうちに、リーダーのJasonから「Shinyaも一曲叩くか?」と言われシットインさせてもらう流れに。ずっと観ながら自分も叩いてみたい気持ちがあったので、そのオファーはとても嬉しかった。何の曲を演奏したかもう忘れてしまったけれども、校外のカフェで演奏するのは初めてだったし、学生ではなくプロのミュージシャンとして見られるのだろうから、とても緊張したんだと思う。それから先も何度もシットインさせてもらったが、名前を呼ばれる度に心臓がバクバクしたことをよく覚えている。
Dunn BrothersにてYoungと
秋になると、そろそろ自分の楽器が欲しくなってきて遂にドラム・セットを購入した! シンバル類は少し前に揃えてはいたのだが、肝心の太鼓類はまだ持っていなかったのだ。僕はだいたいのことは形から入るタイプなので、どこかで耳にした「ジャズといえばGretschだ」という言葉を信じ切って、実際に試奏することも無く自分の勘だけを頼りにGretschのセットを買うと決めていた。そして、その後何度もお世話になるLone Star Percussionというお店に出向き、カタログを見ながら自分の欲しいドラム・セットとスネアを注文した。完全受注生産のモデルだったので、それから半年ほど経ち、2005年に入ってからようやく手元にそのセットが届いたのだ。それはそれはもう嬉しくて、音も出せないのに自宅でそのセットを組み立て、一晩中眺めていた。
そしてそれを機に、Darioの都合が悪い時にJasonから連絡があり、Dunn Brothersで一緒に演奏してくれないか、と頼まれるようになった。ご自慢のドラム・セットを持ち運び、微々たるギャラでしかないが、プロとしての初めての仕事に舞い上がった。そうして度々演奏しているうちに、Darioがドラムの世界を諦め違う道に進むことになり、僕がレギュラー・メンバーとして毎週演奏するようになった。元々ドラマーよりもパーカッショニスト志向であったし、演奏するよりも裏方でエンジニアとかもしたいという理由だった。その後、僕はテキサスを後にする少し前まで、Jasonのギター・トリオで毎週Dunn Brothersに出演していた。そこで学んだ膨大な量の楽曲は今や自分の糧となっているし、カフェということもあり、小音量で演奏する技も身につけないといけなかったことは(当時は音量を出せないことにかなり不服に思っていたのだが)現在にも活きているのだろうと思う。
そして、その頃から、少しずつ自分の実力と学校のレベルが合わなくなってきたことから、学校に対する不満や不信感を持つようになってきた。
【第二十四章】―転校―
Dunn Brothersでの演奏を始めたことをきっかけに、僕の活動の幅はどんどんと広がっていった。カフェだけでなく、それなりに名の知れたジャズ・クラブでも演奏させてもらったり、また、学校を通してジャズ・フェスティバルに参加したりメキシコに遠征で行ったり、とても充実した音楽生活であった。
メキシコ遠征時
そうやって自分自身の音楽レベルが少し上がったことで、Brookhaven Collegeで最初に入ったLab Bandに違和感を覚え始めた。他の生徒はジャズ・ミュージシャンを目指す人ばかりとは限らないし、演奏していて物足りなくなってきたのだ。もちろん僕が初心者の時はとても有意義な時間を過ごさせてもらったし、それはとても有難いことだったが、自分の居場所はもうここじゃない、と感じ始めた。更に、そのLab Bandを受け持つRoyの教え方にも不信感を抱くようになった。クラシックのサックス奏者ということもあり、ジャズにはあまり精通しておらず、いつの間にかその知識は僕の方が上になっていた。彼の言う言葉に説得力がなくなってしまったのだ。またそれだけでなく、彼は少し楽器間で差別をしていた。自身がサックスを演奏するから、もちろんサックス奏者は優遇され、リズム・セクションはいつも後回になっていたし、あまり気にもかけてくれなかった。そして最終的に、僕はそのLab Bandの授業を取らなくなった。Royには「腕のいいドラマーが必要だから残ってほしい」と言われたが、もはやそんな言葉は僕には響かなかった。
Lab Bandを辞めたけれど、Keithのことはとても信頼していたし、水曜日の夜のビッグバンドは続けていた。ヴォーカルジャズコのアンサンブルも楽しかったし、先生とも仲良くやっていた。ただやっぱり、僕はそろそろ次のステップに行かないといけないと感じ、更に上のレベルを目指したいと思った。そしてそのために、学校を変えよう、そう決断した。
ダラス、そしてその隣にあるフォートワースの二都市を含めたGreater Dallas(ダラス・フォートワース・アーリントン大都市統計地域)。その中には数々の大学があり、元々目指していたデントンにあるUniversity of North Texas(UNT)ももちろんその中に含まれる。だがしかし、ジャズを学ぶにつれ、UNTに入学したいという希望は薄れていった。UNTはビッグバンドでとても有名な学校で、9つあるビッグバンドの中のトップにあたるOne O’Clock Lab Bandはグラミー賞に何度もノミネートされるほどのレベルで、著名なジャズ・ミュージシャンをたくさん輩出している。そういう伝統のある学校なので、ビッグバンドよりもコンボ志向だった当時の僕は、UNTを目指すことを諦め、別の場所を探し始めた。
そうやって探している中、何度も耳にする人の名前があった。Tim Ishii、UNTのOne O’Clock Lab Band出身のサックス奏者だ。彼は演奏家としてだけでなく、指導者としても名が知られていた。実は、学校を変える決断をする少し前に、フォートワースの方にある大学のビッグバンドを見学しに行ったことがある。その時に流れでドラムのオーディションも受けてみたのだが、その時のジャズ科のトップがそのTim Ishiiだったのだ。日系アメリカ人の二世ということもあり、日本語は喋れないが親しくしてくれた。そしてそのTimが、その大学からUniversity of Texas at Arlington(UTA)のジャズ科のトップになるという連絡が入った。以前の大学は、少し田舎にあり、名前もそれほど知られていなかったので、Timにとっては栄転だったし、UTAのジャズ科にとっても良い流れであった。
もともとKeithもUTAを勧めていたし、Timがディレクションをするのであればきっと素晴らしいジャズ科になるに違いない、そう思った。ニューヨークやロサンゼルスみたいな大きな街に行き腕試しをしたいな、とも思ったこともあったが、やはり自分のレベルはまだそこまで行き着いてはいない、そう判断した。それに、ニューヨークへと偵察に行ったのだが、あの街はどうにも好きになれなかったし、僕には全く合わない場所だと感じてしまった。そして僕は遂にUTAのオーディションを受ける覚悟を決めた。
NYでの一息
【第二十五章】―才能―
University of Texas at Arlington (UTA)に編入しようと思ったのは、Brookhaven Collegeでの現状が理由でもあったが、それだけではなかった。仲間からの熱い後押しもあって決断できたのだ。
学校での演奏が面白くなくなり、内心ずっとモヤモヤし、どこか集中力に欠ける日が多くなったりもしていた。それに一早く気付いたのが、ビッグバンドやドラム・レッスンなどで毎週何度も僕のことを見てくれていたKeithだった。
僕が昔書いていたブログのアーカイブを遡ってみると、2015年のある日のできごとについてこう書いていた(関西弁での表現はさておき…)。
“水曜日にKeithとドラムのレッスンがあった。前々からお互いに分かってたしお互いに言うてたことやけども、「このセメスターの俺はやる気に欠けている」ということ。気分転換をしても何をしてもなぜかやる気に満ち足りない。そら人やから悩み事やつらいことなどもある、でもそれを理由にしたくないし、したとこでどう変わることもない。同じく自分のいる環境、学校の環境、そういうのも理由にならない。その環境の中で出来る限りのことをしているのか、というと簡単に答えがでる。していない。しかし、したくないのではなく、その理由が分からない。理由はどうでもいい。水曜日、レッスンでとりあえずやることをやった後、Keithと話し合った。「やっぱりやる気がないみたいや」と言ってみた。正直そのことについてKeithに対しても悪く思うし、そんな自分がとても嫌いである。Keithは色々話をしてくれた。そして1つ質問を俺にした。「ドラムをやる前でもいいが、バイオリン、ピアノ、ギターをやってて音楽が簡単にできてるって感じたことはないか?」と。「うん、まぁそれなりに練習もしてなかったし、そうなるかな」と答えた。Keithは「それは何か分かるか?」と聞いてきた。答えが見つからず、俺は黙りその後「I don't know」と言ってみた。
「それは才能だ」
その一言に何も言えずにKeithの話をずっと聞いていた。
「神様か、神様を信じていないならこの世界の何かがお前に与えたもの、それが才能であり、それをお前は持っているんや」と。
「その才能のせいで音楽で一般的に難しいこともお前はすぐにできてしまい、一度できるとそれ以上を求めずまた元の位置に戻ってしまう。壁に突き当たると壁を壊すことをできるが壁の向こう側には行こうとしない、そしてまた来た道を戻りまた同じ壁が立てられていても壊すだけで、それ以降はない。お前にはたくさんの潜在能力があるし可能性もある。ただ今の状況を続けていくと進歩しない。その壁の向こう側を知らないから、その壁のなかでお前は自分に対して厳しすぎる。今の生活でお前は学校とピアノラボのバイトとアパートでの生活の3つに集中しすぎている。彼女がいいものかどうかは分からないが、彼女やらなんやらの音楽または学校に関係のないものも時には必要なのだ。それに日本の家から遠く離れて一人で住んでいるから生徒と先生の関係なしにShinyaのことが心配になる。たまに聞くと飯をちゃんと食っていないと聞くし健康面でも気になる。俺はShinyaとは違い才能がなく努力でここまで来た。毎日の積み重ねもとても重要だ。お前からは音楽に対する情熱や何よりも音楽をしたいという心を感じられる。俺にもそういう時期があったしよく分かる。今いてるところは、そしてこれから行こうとしているところはお前が本当にいなければいけない場所ではない。ニューヨークやロスなどにある音楽学校に行く必要がある。今すぐにとは言わない。次の場所を経て、いずれ、そこに行かなければならない。今のこの環境ではお前は全くチャレンジされていない、お前がいるにはレベルが低い。もし音楽的に刺激されていないのであれば、俺が刺激してやる。今度の土曜日のレッスンはそれも含めている。土曜日までに2つの目標を考えてみろ。短い時間(数ヶ月以内)で達成できる目標と長い(数年)目標の2つを。その答え自体でこれからのレッスンをしていきたいと思う。困ってることがあるんやったら何でも言うてこい」”
改めて読み返し、本当に良き理解者が自分の側にいてくれたんだなと思った。この後、Keithは僕にたくさんのことを教えてくれ、音楽人生の糧となる経験をいっぱい共有してくれた。厳しくも優しく愛情を注いでくれ、僕が成長することを一番に喜んだ。
それから僕は、正直飽和気味になっていた「音楽」というものをまた楽しめるようになってきた。新しい音楽をたくさん聴き、今まで知らなかったものをどんどん受け入れる。そうやって刺激的な毎日が少しずつ戻ってきたのだ。
また、KeithだけでなくDunn Brothersでよく一緒に演奏していたYoungからもこう言われた。
「なあ、俺と一緒にUTA行かないか? 2年間だけでいいから」
Youngは僕より3つ上で韓国出身のベーシストだ。同じアジア人ということもあり、お互いの気持ちがよく理解できるし、何より演奏がとてもよく合う二人だったので自然と仲良くなった。仲が良いというより、時が経つに連れほぼ兄弟みたいな関係になっていた。漫才でいうところの相方みたいなものなのだろうか、そういう存在だ。Youngも同じく次のレベルに行きたくUTAに編入しようと考えていたのだ。誘われた時は、まだ自分自身の行き先が分かっていなかったからどうしようかしばらく考えたが、Youngと一緒に演奏できるなら最高だなと思い、その気持ちも転校を決断する動機の一つとなった。
そして彼もKeithと同じく僕を全面的にサポートしてくれ、UTAのオーディションの当日、僕を車で会場まで連れて行ってくれたのだ。
そう、遂に運命のオーディションの日が来たのだ。
当時、悩んだ時によく訪れた橋の下