COLUMN/INTERVIEW

追悼:音楽プロデューサー・行方 均氏



3月13日、音楽プロデューサーの行方 均氏が、急性骨髄性白血病のため68歳で逝去された。長年にわたり、ジャズを中心に日本における洋楽文化の普及に、多大なる貢献を果たされてきた。中でも特に、1500番台のアルバム番号順LP再発を皮切りに、「Mt.FUJIジャズ・フェスティバル・ウィズ・ブルーノート」の開催、「完全ブルーノート・ブック」をはじめとする多くの書籍の監修、傍系レーベル「サムシンエルス」での国内外のアーティストのプロデュースや育成、世界的大ヒットとなったRVGリマスター・プロジェクトの企画、映画『ブルーノート・レコード ジャズを超えて』の字幕監修など、ブルーノート・レコードへの貢献は計り知れない。ここでは、逝去の翌日にUSブルーノート・レーベルのオフィシャルサイトへアップされた、行方氏の長年の盟友マイケル・カスクーナ氏による追悼文をご紹介する。


HITOSHI NAMEKATA: A REMEBRANCE

行方 均(通称ナメ)は、過去38年間にブルーノートで起こった出来事の大いなる立役者のひとりであった。彼はもともとジャズ(特にブルーノート)と米国・英国の60年代後半のロック・バンドのファンだった。彼は20代前半に東芝EMIに入社し、音楽に近い現場で働くことを切望していた。東芝EMIが1982年にブルーノート・レコードの国内流通を取り戻したとき、彼はレーベルの編成とマーケティングを任せられた。それは、ブルース・ランドヴァルによるブルーノート復活の2年前のことだった。その夏ナメがEMIのミーティングのためにニューヨークに滞在していた折、日本にいる共通の友人が、私たちふたりが会うようにと提案した。そして西47丁目の埠頭でのTubesのコンサートでナメに会った。彼はほとんど英語を話せなかったが、私たちは分かり合えた。私は彼を私のアパートの近くのインド料理店に連れて行き、それからアパートへ戻って、音楽を聴いて飲んだ。

私たちはすぐに友だちとなり、私は彼が発売するブルーノートの未発表アルバムのプロジェクトに取り組み始めた。私が発掘したキャノンボール・アダレイ『サムシン・エルス』の未発表曲(訳注:「アリソンズ・アンクル」)を、ナメは12インチ・シングルとしてリリースすることにした。彼は、それが5,000枚以上売れたら、プレス・ツアーで私を日本に連れて行くことができると話した。

83年7月までに、私は初めて日本へと向かった。それは人生を変える旅だった。そこでナメがプランニング及びマーケティングの達人であることが明らかとなった。新聞、雑誌、ラジオ、テレビのインタビューやリスニング・セッションなど、ジャズ媒体のタイトな取材スケジュールを私はこなした。大阪のホテルにチェックインし、夕食をとろうとタクシーを捕まえたとき、10代と思しきレザー・ジャケットを着た若者がナメの前を通り過ぎて、「カスクーナさん、サインを!」と言ってきた。タクシーが発車すると、ナメは微笑んで言った。「これでようやく成功を実感したよ」。

1985年2月22日にブルースと私がタウンホールでプロデュースした「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」コンサートの後、コンサートに出席したナメから、日本テレビが同様のイベントを富士山で開催したく考えていると聞いた。彼はそれが可能だと主張し、チームを結成した。数回の日本への出張の後、私たちは開催場所を選び、ロジスティクスを整理し、「Mt.FUJIジャズ・フェスティバル’86・ウィズ・ブルーノート」を計画した。3日間のイベント開催の前夜、台風がその地域を襲い、小さなステージとステージの半分、座席とメイン会場のすべての楽器が破壊されてしまった。午前8時の会議の後、それらを再建して開催することが決定された。コンサートは2時間遅れで始まった。私は、日本人の労働倫理に驚き、感謝した。そして、1回限りの予定だったフェスティバルは、10年間も続いた。

ナメは多くの点で非日本人的だった。不遜で、皮肉屋で、ルールや手続きに無関心だった。彼の同僚は、何年もの間、私たちは双子の兄弟だと言っていた。デクスター・ゴードンやジョン・スコフィールドのようなブルーノート所属のアーティストでさえ、私たちの類似性に注目していた。デクスターは、昭和天皇が亡くなった直後に、東京でナメと最初に会ったときのことを覚えている。国民が悲しみに暮れているかどうか丁寧に尋ねたところ、ナメは肩をすくめて答えた。「どうなんだろう…そういう人も居るはずだけど」。

1988年、ナメはEMIのブルーノート部門内に自身のレーベルを設立することを決め、サムシンエルスが誕生した。彼は、ラルフ・ピーターソン、リニー・ロスネス、ジョージ・アダムスなど、多くの素晴らしいアルバムを録音した。数年後、ブルースと私はキューバ政府のゲストとしてハバナに行き、ゴンサロ・ルバルカバと出逢った。そして、米国の対キューバ禁輸措置にもかかわらず彼を録音する方法を見出だしたとき、ナメは助け舟を出してくれ、サムシンエルスで彼と契約した。そのアルバムは、日本以外の国ではブルーノートから発売された。

ナメは素晴らしいマーケッターだった。ある夜、彼は私に電話してきて、偉大なジャズ・レーベルといえば何だ?と尋ねたのを覚えている。もちろん、ブルーノートだ。ナメは、「いや、来年日本ではパシフィック・ジャズに集中する。来年に限って、答えはパシフィック・ジャズだ」。米国と同様に日本で尊敬されている貴重なブルーノートのカタログを改善し、再提案するための努力の中で、ルディ・ヴァン・ゲルダーにブルーノートの名盤のリマスターを依頼するというアイデアを最初に思いついたのもナメだった。

ナメは唯一無二の人物だった。私たちの人生は、ブルーノートを中心として37年にわたり国境を超えて交差した。私にとって彼は、友人、同僚、共謀者以上の存在だった。私にとって彼は兄弟だった。たくさんの思い出と笑いと成功。でも、彼が私のアパートに来て、一緒に息子のおもちゃで遊んだときのことを覚えている(マックスは当時2歳だった)。ナメは、2020年3月13日、白血病のため68歳で亡くなった。


©Photo by Lisa Cuscuna

マイケル・カスクーナ

(翻訳:BLUE NOTE CLUB)

原文:http://www.bluenote.com/hitoshi-namekata-a-remembrance/


■行方 均氏の最近の主な仕事
◆ドキュメンタリー映画の字幕
『ブルーノート・レコード ジャズを超えて』

http://www.bluenote.com/hitoshi-namekata-a-remembrance/

『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』

http://evans.movie.onlyhearts.co.jp/

◆コンピレーション・アルバム監修・選曲・解説
『アート・ブレイキー時代』/アート・ブレイキー

https://www.universal-music.co.jp/art-blakey/products/uccu-1619/

ソングス・オン『タイム・リメンバード』/ビル・エヴァンス

https://www.universal-music.co.jp/bill-evans/products/uccu-1601/


◆書籍
『ブルーノート・ベスト5&クロニクル』(行方 均 著) ソラオト書店刊

https://www.universal-music.co.jp/p/dch-9009/

『ジャズは本棚に在り ジャズ書と名盤』(行方 均 監修・著) シンコーミュージック刊

https://www.shinko-music.co.jp/item/pid0645006/