Mette Henriette『Drifting』
文:原 雅明
メット・アンリエットのソロ・デビュー作『Mette Henriette』(2015年)は、特別なアルバムだった。当時まだ20代半ばだった彼女は、ECMから2枚組でセルフ・タイトルのデビュー・アルバムをリリースした最初のアーティストとなった。アントン・コービンが撮影した、テナー・サックスを背中に巻きつけた彼女の写真も他のECMのジャケットとは異なり、一際目を惹いた。独学で取り組んできた作曲とインプロヴィゼーションによる音楽は、ピアノ、チェロとのトリオと、ドラムやストリング・カルテット、バンドネオンも交えた13人編成のアンサンブルの演奏から成り立っていた。
アンリエットはノルウェー中部の都市トロンハイムで生まれ育ち、そのジャズ・シーンでは力強い演奏がアルバート・アイラーやエヴァン・パーカーと比較されたというが、彼女自身は「サックス奏者のロールモデルを持ったことがない」と断言する。「頭の中にあるアコースティックなサウンドスケープ」を形にしたというオリジナル曲の演奏は、トリオにせよアンサンブルにせよ、ジャズのカテゴライズからすり抜けていくものだった。
そして、『Mette Henriette』をリリース以降、彼女は作曲家として、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団やノルウェー・アークティック・フィルハーモニー管弦楽団に曲を提供し、ドクメンタ14をはじめとしたアート・フェスティヴァルで共同委嘱の舞台作品を手掛けた。演劇、バレエ、映画などの様々なプロジェクトにも関わった。また、チリをルーツに持つアメリカの電子音楽家ニコラス・ジャーが結成したニコラス・ジャー&グループにサックス奏者として参加してツアーも行った。つまり、『Mette Henriette』以降のアンリエットに、ジャズ・サックス奏者というイメージは希薄だ。
『Mette Henriette』から8年を経て、セカンド・アルバム『Drifting』がリリースとなった。ヨハン・リンドヴァルのピアノ、ジュディス・ハーマンのチェロとのトリオでの録音だ。ノルウェー出身のリンドヴァルは『Mette Henriette』にも参加し、ブッゲ・ヴェッセルトフトのJazzlandからリリースしている自身のトリオではコンテンポラリーなジャズに根ざした演奏を聴かせている。『Mette Henriette』以降にトリオに参加するようになったハーマンは、オーストラリア出身で現代音楽、エレクトロ・アコースティックの作曲家でもある。実験音楽やサウンドアートを支援する非営利団体で高柳昌行や友川かずきのリイシューでも知られるBlank Formsから、ミュージック・コンクレートやフィールド・レコーディングの要素もあるソロ作をリリースしている。
異なるバックグラウンドを持つ3人による演奏は、繊細な室内楽のようにスタートするが、モチーフの反復の中にさまざまな相互作用が生まれていく。『Mette Henriette』においてもそうだったが、アンリエットのサックスは吐息やマウスピースの水分の音まで拾うように意図的に弱く吹かれ、空気を振動させる様が伝わってくるような瞬間がある。それはレコードのスクラッチノイズを想起させもする。一方で、伸びやかで力強い響きもあれば、サム・ゲンデルのようにエレクトロニックなプロセッシングを施したかのように聴こえる瞬間もある。リンドヴァルのピアノは基本的にシンプルなコード、メロディの反復をキープして、リズムを刻む役割も担っている。ラ・モンテ・ヤングと活動を共にしてきたチェロ奏者のチャールズ・カーティスに師事したハーマンは、優雅な響きからドローンまで幅広いサウンドを奏でている。そのチェロがこのトリオ独特のテクスチャーを生んでいる。
アルバム15曲の内、10曲は3分に満たない短い曲だ。「まだ成長している、あるいは動いている全てのものを聴くことができ、私のイマジネーションがいかに存在するかがわかります」とアンリエットは『Drifting』のプレスシートで述べているが、特に短い曲に、移ろいでいくプロセスを捉えていることが感じられる。彼女は、楽器の特性と作曲のメカニズムを大切にしているが、それはラフなスケッチのように表現されているとも感じられた。シリアスに響く中に、一つのイメージに固着しない緩やかな流動性がある音楽だ。
若くして国際的な成功を収めたフィンランドのクラウス・マケラが指揮するオスロ・フィルハーモニー管弦楽団が、アンリエット作曲の「This Too」という曲を演奏する映像が公開されている。コンサートホールではなく、オスロの都心部に隣接した港湾地区に野外ステージを設けて演奏された。この曲は、アンリエットが初めてオーケストラのために書いた曲で、これも3分半ほどの短い曲だ。「自分のアンサンブルと同じように、木、革、金属、弦の音色を使うことができます。このパレットを探求し続けることに、とても刺激を受けています」という彼女のコメント(※1)通り、『Drifting』の世界との繋がりを感じ取れる。
『Drifting』はジャケットも含めて『Mette Henriette』のような強いイメージを残すアルバムではないが、作曲家として独自の歩みを始めたアンリエットの音楽の本質を見事に捉えている。起伏の少ない展開も、ある程度ボリュームを上げて聴くと曲の構造がはっきりと顕れてくる。彼女は、スカンジナビア半島の最北部を中心に居住する先住民族のサーミ人の祖母を持つ。ヨイクというサーミ人の無伴奏の即興歌からの影響も含めて、彼女の音楽はジャズ、クラシック、フォークロアに通底する何かを表現し始めている。
※1 https://ofo.no/en/news/this-too-mette-henriette
■作品情報
Mette Henriette / Drifting
https://lnk.to/Mette_Henriette_Drifting